新設:2009-01-01
更新:2022-11-13
ヤン・ヨーステン像
撮影:2010-12-02
案内板 (ヤン・ヨーステン像台座)
ヤン・ヨーステンは和蘭人で 西暦1600年豊後の海で難破した和蘭船に乗っていた。そのまゝ日本に住みつき徳川家康の信任を得、外交や貿易について進言をする役目についた。その江戸屋敷は和田倉門外の堀端にあったので、後に彼の名にちなんで八代洲河岸と称せられ、更に八重洲になった。ここに彼を偲んで記念像を置く。
<注>
ヤン・ヨーステン記念像は、八重洲地下街の「センタースポット」から同スポットから近い「外堀地下一番通り東壁面」に移され、2010-12-02現在当所右隣はラーメン店の「游亀亭」となっている。
案内版 (パネル左端)
八重洲の由来となったオランダ人
ヤン・ヨーステン ?~1623
ヤン・ヨーステン(オランダ人・日本名、耶楊子・やようす)は、ウイリアム・アダムス(日本名、三浦按針)等とともに慶長5年(1600)に豊後(現・大分県)に漂着したオランダ船リーフデ号の船員だった。
ヤン・ヨーステンは徳川家康の通訳として重宝され、江戸城下の今の日比谷あたりに屋敷を与えられたので、このあたりの地名を八代洲(やよす)河岸といった。「八代洲」は、のちに「八重洲」と書かれ、初めて町名になったのは明治5年(1872)のこと(現・丸の内1丁目付近)。その後東京駅が開業すると、八重洲町の大半は東京駅となるが、昭和29年(1954)には東京駅東側一帯が「中央区八重洲」となって今日に至っている。
日本人と結婚したヤン・ヨーステンは、幕府より朱印状を得て、東南アジアを中心に幅広く貿易を営んだ。また、慶長14年(1609) 長崎・平戸にオランダ商館が開設されると、日本とオランダとの貿易の発展に尽力した。のちに、帰国を思い立ったヤン・ヨーステンはバタビア(現・ジャカルタ)に渡り、帰国交渉をしたが不調に終わり、日本への帰帆途中、船が難破して亡くなった。
リーフデ号の日本までの航路、江戸時代と現在の八重洲界隈の地図、およびリーフデ号模型(日本郵船歴史博物館所蔵)写真などが示されている。
八重洲の由来 The origin of "Yaesu"
撮影:2008-10-19
案内銘板 (下写真銘板)
「八重洲」の名は、慶長5年(1600)に豊後(現・大分県)に漂着したオランダ船リーフデ号の船員であったヤン・ヨーステンの名に由来するという。ヤン・ヨーステン(日本名 耶揚子)は、徳川家康の通訳として重用され、江戸城下の今の日比谷あたりに屋敷を与えられたので、このあたりを八代洲(やよす)河岸といった。
「八代洲」は、のちに「八重洲」と書かれ、その「八重洲」という広域地名が、初めて町名となったは明治5年(1872)のこと(現・千代田区丸の内1丁目付近)。その後大正3年(1914)に東京駅が開業すると、八重洲町の大半は東京駅となるが、昭和29年(1954)には東京駅東側一帯が「中央区八重洲」となって今日に至っている。
ちなみに、リーフデ号の水先案内人であった英国人ウイリアム・アダムズ(日本名:三浦按針)も家康の外交顧問となり、日本橋近くに屋敷を与えられたので、このあたりを按針町(現・室町1丁目、本町1丁目)といった。
左上:ヤン・ヨーステン像 L.P.J.ブラート作(八重洲地下街センタースポット)
右上:徳川家康像(「東照大権現霊夢像」)徳川記念財団所蔵
左下:ウィリアム・アダムス(和名:三浦按針)像 重岡建治作(伊東市渚公園)
右下:リーフデ号模型「サン・ブエナ・ヴィンツェーラ号」像 重岡建治作(伊東市渚公園)