新設:2019-07-01
更新:2022-11-13
日本橋魚河岸跡
撮影:2019-04-16
1番目写真に向かって右から 標石「乙姫広場」(右下極小)、標柱「日本橋魚市場発祥の地」、像「乙姫」および案内板「日本橋魚河岸跡」が 日本橋北詰東の乙姫広場に設置されている
案内板 (中央区教育委員会案内板)
日本橋魚河岸跡
所在地 中央区日本橋室町1丁目8番 地域
日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。この魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町・小田原町・安針町(現在の室町1丁目・本町1丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変なにぎわいをみせていました。
なかでも、日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、1日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。
江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用して運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売場を開いて売買を行ってきました。
この魚河岸は、大正12年(1923)の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。
現在、魚河岸のあったこの場所には、昭和29年(1654)に日本橋魚市場関係者が建立した記念碑があり、碑文には、右に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでの3百余年の歴史が刻まれ、往時の繁栄ぶりをうかがうことができます。
平成19年3月
中央区教育委員会
案内碑文 (乙姫像台座正面に刻まれた案内碑文)
本船町小田原町安針町等の間悉く鮮魚の肆なり
遠近の浦々より海陸のけぢめもなく鮮魚をこゝに
運送して日夜に市を立て甚賑へりと江戸名所
図絵にのこれる日本橋の魚市 魚河岸のありしは
このあたりなり旧記によればその濫觴は遠く
天正年間徳川家康の関東入国と共に摂津国
西成郡佃 大和田両村の漁夫三十余名江戸にうつり
住み幕府の膳所に供するの目的にて漁業を
営みしに出づその後慶長のころほひ幕府に納めし
残余の品を以てこれを一般に販売するにいたり漁る
もの商ふものゝ別おのづからこゝに生じ市場の形態
漸く整ふさらに天和貞享とすゝみて諸国各産
地との取引ひろくひらけ従ってその入荷量の膨
張驚くべきものありかくしてやがて明治維新の
変革に堪へ大正十二年関東大震災の後をうけて
京橋築地に移転せざるの止むなきにいたるまで
その間じつに三百余年魚河岸は江戸及び東京に
於ける屈指の問屋街としてまた江戸任侠精神
発祥の地としてよく全国的の羨望信頼を克ち
えつゝ目もあやなる繁栄をほしいまゝにするを
えたりすなはちこゝにこの碑を建てる所以のもの
われらいたづらに去りゆける夢を追ふにあらず
ひとへに以てわれらの祖先のうちたてたる文化を
ながく記念せんとするに外ならざるなり
東京に江戸のまことの
しぐれかな
昭和二十九年三月
旧日本橋市場関係者一同に代わりて
日本芸術院会員 久保田万太郎撰
日本芸術院会員 豊慶慶中書