新設:2019-07-01
更新:2022-11-13
縁起・沿革
撮影:2019-03-25
名 称
浄土宗 獅子吼山 専稱院 善徳寺
所在地
東京都北区赤羽西6-15-21
創 建
享徳2年(1453)
後花園天皇の御代(足利時代)に 念仏弘通の道場として草創
開 山
十蓮社楽誉上人
上総国鷺川の領主平千葉重胤孫行次 出家し三縁山増上寺の開山酉誉上人に師事
移 転
1.享徳2年(1453) 貝塚・局沢(坪根沢・つぼねさわ)・現在の皇居吹上御苑に創建
2.天正19年(1591) 平河口に移転…江戸城拡張のため
3.日本橋大舟町に移転…武家屋敷とするため
4.日本橋伝馬町に移転…武家屋敷とするため
5.浅草松葉町に移転…明暦3年(1657)の大火後の都市計画のため
6.昭和2年(1927) 現在地(赤羽西)に関東大震災後の都市計画のため移転
由 緒
浄土宗善徳寺由緒
所在地 東京都北区赤羽西6-15-21
当寺は獅子吼山と称し、浄土宗の別格寺院で今を去る5百数十年の昔 享徳2年(1453) 後花園天皇の御代(足利時代)に念仏弘通の道場として草創せられた江戸に於ても有数の古寺であります。
もと、つぼね沢(現在の皇居内吹上御苑)にあったものが、天正18年(1590)徳川家康の江戸入城により翌19年城外の平川口に替地をを受け、ついで日本橋馬喰町、浅草松葉町と3転し、明暦の大火、大正の大震災にあって現在地に移り、祖先崇拝念仏弘通の中心道場となっています。
開山十蓮社楽誉上人は、上総国鷺川の領主平千葉重胤の孫で行次といゝ、出家して三縁山増上寺の開山酉誉上人に師事し、当時混乱した戦国の世の教化につとめ、明応3年(1494)7月 88歳の高令で入寂せられた徳行の聞え高い名僧でありました。
当寺の本尊は阿弥陀仏で無量の光明と、無限の生命をもって人々を救われるというあらたかな仏様です。
馬込家墓
撮影:2019-11-21他
案内板 (東京都北区教育委員会案内板)
馬込家墓
北区赤羽西6-15-21 善徳寺墓地内
善徳寺の墓域内には、江戸時代、大伝馬町の御伝馬役名主として活躍した馬込家の墓があります。
御伝馬役とは、江戸伝馬役と呼ばれるもので、大小の伝馬町と南伝馬町・四谷伝馬町が五街道と江戸府内近郊へ人馬を継ぎ立てる夫役をいいます。町名主の馬込家は代々、この運営にあたりました。また、他の町で同様の役職にある名主家とともに、名字・帯刀を許可され、町名主の筆頭として年頭に将軍の御目見(おめみえが許されていました。
馬込家は、遠江国敷智郡(ふちぐん)馬込村(浜松市)の出身といわれ、本名を平八、当主になると勘解由(かげゆ)と称していました。馬込という家名は元和元年(1615)5月、大坂落城の後、浜松宿の馬込橋まで徳川家康を迎えた時、500人の人足を引き連れて迎えたことを喜んだ家康から与えられたと伝えています。
最初、菩提寺は増上寺でしたが、その後、増上寺開山聖聡の弟子の楽誉聡林が開基した善徳寺の檀家となりました。墓地は、善徳寺が数度の火災を受けて、日本橋馬喰町・浅草松葉町へと移転したのに伴って移されましたが、関東大震災によって罹災したため、昭和2年(1927)4月に赤羽へ移転した善徳寺とともに現在地へと移りました。
平成8年3月
東京都北区教育委員会
参考文献
東京都江戸東京博物館 調査報告書 第21集「大伝馬町名主の馬込勘解由」
P4、5、(9)、(10)
撮影:2019-11-21
お竹如来の墓
撮影:2019-03-25
案内書 (善徳寺案内書)
「お竹如来」の縁起
当寺にまつってあります「お竹如来」の話は、江戸時代あまりのも有名で歌舞伎にも上演され講談や歌や詩にもなり、徳川幕府からも寄進あり、全国よりの参詣人で賑っておりましたので、その概要を記し御参詣をおすゝめします。
慶長の末期、武州比企郡の一行者が奥州の湯殿山に参詣して「生身の大日如来を拝したい」と祈願したところ、その満願の日に枕元に如来様があらわれ「わが姿を拝し度くば江戸大伝馬町佐久間方の女中お竹を拝すべし」とのお告げがあったので行者は喜びいさんで江戸に出てきました。
この「お竹」というのは江戸大伝馬町の資産家佐久間家の女中で、非常に慈悲深い人でした。人出入りの多い大家だけに台所をあずかるお竹は流しの端に麻の袋をつるしておいて、その端にたまった飯粒や、野菜の屑を一切とっておいて夜遅くこっそり煮て食べて、自分の食べる分は貧しい人々に恵んでいました。その事を知った主人が隙間からのぞいてみたら、そのお竹の体に後光がさしていたといゝます。
なお「お竹」は常に悩める人の相談相手となり多くの人に仏の道を説き、慈悲の行に終始して多くの人を助けていましたが、延宝8年(1680)5月19日臨終に当り「われこそ大日如来なり」と告げられたので、時の人は大日如来の化身であったといゝ臨終と共に昇天されたのであると語り伝えられています。
5代将軍の生母桂昌院はお竹が使った流し板を包むために立派な袋や箱を寄進しており、常に使用していた茶釜等は今でも各地に保存されています。「お竹如来」の名は日本全土にひろまり、なやみごとのある人が願がけをすれば必ず恵みをたれるといわれ、また人を求める人が願をかければ、よき人を世話されるとの言い伝えから今でも縁組、求人などの願がけの人が跡をたちません。
参考Webサイト
「於竹大日如来縁起絵巻」データベース 国際日本文化研究センター