新設:2009-01-01
更新:2022-11-13
按針塚・三浦按針夫妻供養塔
撮影:2009-11-27
案内板 (供養塔傍案内板)
市制施行七十周年記念
横須賀風物百選
三浦按針夫妻墓
墓石は、江戸期の宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、国指定の史跡となっています。右が按針の墓で、左がその妻の墓です。
三浦按針は、本名をウィリアム・アダムズと言い、1564年にイギリスのケント州ジリンガムで生まれました。少年時代の12年間を造船工として働き、成長して海軍に入り、航海長や船長をつとめました。のちに、オランダのファン・ハーヘン会社の東洋探検隊に加わり、リーフデ号の航海長として1598年に東洋へ向かいました。
慶長5年(1600)、台風に遭い、生き残った乗員24名と共に豊後国(大分県)臼杵に漂着しました。
徳川家康は、三浦按針を高く評価し、政治・外交顧問として重く用い、江戸日本橋に屋敷を、この地逸見村に250石の領地を与えて厚遇しました。三浦の姓は、この三浦の地を領地としたことにより、按針の名は、水先案内人を当時按針と称していたことによります。
この頃の按針は、家庭的にも恵まれ、江戸日本橋大伝馬町の名主馬込勘解由(まごめかげゆ)の娘を妻とし、ジョセフとスザンナの1男1女をもうけました。
家康の亡きあとは不遇となり、元和6年(1620)5月16日に平戸の豪商木田弥次右衛門宅で病死しました。享年57歳でした。
この地に供養塔が建てられたのは、「我死せば、東都を一望すべき高敞(こうしょう)の地に葬るべし、さらば永く江戸を守護し、将軍家の御厚恩を泉下に奉じ奉らん」との按針のことばに従ったものと言われています。
毎年4月8日、按針の遺徳をしのび、国際色豊かな記念式典が行われます。
安鍼塚碑(按針塚碑)
撮影:2009-06-07ほか
碑に刻された俗字などの中には、Unicode(UTF-8)でも表示できない文字があるため、Unicodeで表示可能な文字に置き換えた。文字に間違いがあれば本サイト管理人(按針亭管理人)宛に連絡いただければ幸いです。
なお、碑は、按針塚右手前にあって、碑建立時の一流の人が、碑文を作成、書し、刻字しているが、碑文には見逃すことができない誤謬があると幸田成友(こうだしげとも)が昭和9年に「三浦按針餘談」で指摘している。
2009年6月時点では、碑の前方は樹木に蔽われているため、按針塚を訪ねる人の中には碑文に気付かないまま立ち去ってしまう方がいると思われる。
~碑文の横書は次のとおり~
正二位大勲位侯爵井上馨篆額
塚者葬維廉亞達母斯氏處氏世稱安針英國堅特州紀林翰人慶長三年駕
蘭舩航東洋遭颶風漂蕩三年達豐後海岸時徳川家康在大阪召見移之江
戸賜邸令日本橋區安針街是也家康擢氏為譯官或顧問試命造洋形船成
稱意又爲砲術地理數學等師範或從事外商貿易頗有功績因賜相模三浦
郡逸見村二百五十石之地為食邑元和六年四月十四日病歿氏臨終遺嘱
曰吾漂來此國暖飽至令皆徳川將軍之恩也宜葬吾於逸見山巓令東面其
墓可以望江戸泉下有靈永保護此都佛諡曰壽量滿院現瑞居士妻馬籠氏
生二子皆夭寛永十一年七月十六日妻亦歿合葬于此佛諡曰海華王院妙
滿比丘宅阯猶在村中香火院曰淨土寺傳遺物二種云明治三十八年神奈
川縣知事周布君公平歎其墳墓之頽廢於寒煙荒草中與英國公使麻克竇
納爾海軍大將井上男及英商惹斯倭爾太謀募金修繕之有栖川威仁親王
英國亞礼爾康納特親王竝賜保護令旨我搢紳富豪及英國人爭喜捨獲貳
萬圓許乃用其半修墳墓擴兆域植花木置守戸名曰塚山貯其半充永久保
存之費因又建碑不朽其人属余作銘銘曰
嗟安針氏 海外漂寓 有功國家 報以恩遇
義不忘恩 生死仰慕 永護江都 東面其墓
大正三年十月 從三位勲二等文學博士三島毅撰
從六位勲五等高島張輔書 井龜泉刻字
按針塚の修理竣工標石と史蹟指定標石
撮影:2009-06-7
- 標石表
- ウ井リアム・アダムス夫婦墳墓在於塚山絶頂
- 標石裏
- 明治三十八年有志者胥謀欲修理
墳墓茲工竣因建此標石
明治四十三年五月
神奈川縣知事 男爵 周布公平
大不列顛特命全權大使 ゼ・ライト・オーラブル・サー・クロード・ヱム・マグドナルド
本標石は、按針塚(三浦按針夫妻供養塔)へ登る階段の左下にある
- 標石正面
- 史蹟 安針塚
- 標石右側
- 史蹟名勝天然記念物保存法ニ依リ
大正十二年内務大臣指定
- 標石左側
- 大正十三年六月建設
中央樹木の陰に上記の按針塚の修理竣工標石がある