新設:2009-01-01
更新:2022-11-13
リーフデ号の浦賀回航および解体とエラスムス像
「リーフデ号の浦賀回航および解体とエラスムス像」について 鈴木かほる著『史料が語る 向井水軍とその周辺』は P91-95で記しており その要点を抜粋して掲げる。詳細は同書をご覧下さい。
リーフデ号の浦賀回航
三浦按針が豊後国臼杵佐志生の黒島海岸に着岸したのは慶長5年(1600)で 三浦按針自身が記す旧ユリウス暦では1600年4月19日 新暦グレゴリオ暦は10日のずれがあるから4月29日であった。
大坂城在城の家康の指令を受けた使者が豊後に到着したのはリーフデ号着岸から9日後である。このときの使者は向井政綱であって 三浦按針と向井氏の出会いは豊後に源を発する可能性が高い。
『16・7世紀イエズス会日本報告書』に「内府様は 船を 都か堺に回航させるために 直ちに重鎮の1人を豊後へ遣わした。そして(中略)関東にある自らの所領の港へ運ばせた……」とある。
和泉堺浦へ回航されたリーフデ号は徳川家康の命により江戸へ回航されるが 途中 遠州灘で逆風に阻まれ破船し やむを得ず相模三浦郡浦賀湊に避難した(『長崎実録大成』)
リーフデ号の解体とエラスムス像
浦賀湊に避難したリーフデ号は修復を施す術もなく2年以上も放置され 肋材は朽ち 船首の窓は壊れ やむを得ず浦賀で解体することになった(『長崎実録大成』)
リーフデ号は船尾にエラスムスという僧形の装飾彫像を飾り付けていたことから 船名は はじめオランダの慣わしにより 装飾彫像の名に因みエラスムス号としていた。
このエラスムス像は 大黒帽を被る高さ1メートルほどの木造で 右手に巻物を持ち その1行目に「ERASMUS」 2行目に「ROTTERDAM 1598」と刻まれている。
向井政綱の管理下にあったエラスムス像を 牧野氏が向井氏に請うて手に入れたと考えるのが妥当ではないか。
蛇 足
横須賀市役所サイトでは 「よこすか歴史絵巻」の一部として、三浦按針を「ウィリアム・アダムズ(三浦安針)がリーフデ号を浦賀に回航(安土桃山時代)」のタイトルにて紹介しています。しかし 「リーフデ号の浦賀回航」についての記述は全くありません。