新設:2019-07-01
更新:2022-11-13
浦賀の按針屋敷跡
撮影:2019-04-20
案内板 (浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探検くらぶ 案内板)
洲 崎 (地名の由来)
東浦賀町2丁目のこのあたりを洲崎といいます。その地形からわかるとおり 浦賀湾にふっくらと張り出した洲の先頭部ということに由来します。
洲崎の山の手には 江戸時代の初期に三浦按針(ウイリアム・アダムス)の屋敷があり 按針が勧請した社があったと記録されていますが、その場所は分かっていません。
この近くの東叶神社の裏山は 戦国時代の1556年 三浦半島が房総の里見軍に攻められたため 北条氏康が築城したといわれる浦賀城があった所です。この城は 後北条氏時代の三浦半島水軍の根城でした。山頂は平坦で 東京湾と対岸の房総半島が一望できます。
浦賀奉行所与力・中島三郎助と子の墓が東林寺にあります。
浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探検くらぶ
補 足
鈴木かほる著『徳川家康のスペイン外交―向井将監と三浦按針―』の P89-91 に「三浦按針の浦賀邸」と題した項があり その終わりの部分に次のとおり記されている。
浦賀の按針邸がどこにあったのか、今や古老さえ知るところではないが、幸いにも、地誌『浦賀志録』上巻四(明治42年)に、「同町山ノ手ニ、按針屋敷ト云ウアリ、其上ノ山腹ニ按針ノ勧請セシト云ウ社宮司トイウ小祠(しょうし)アリ、如何ナル守(かみ)ヲ崇(あが)メシニヤ、又荒井町ニ鍛冶屋町(法幢寺下通り)ト云ウ処アリ、按針ガ破船ヲ修繕セシ折、鍛冶職ノ居(お)リシ処ト云ウ」とあり、また『三浦郡志』(大正7年)に「(浦賀湊の)東岸州崎の東林寺と云へる寺院の坂下に、『アンジンヤシキ』と称する一劃(かく)に名残を留るに過ぎず……」と、当時の伝えを書き残している。つまり『三浦郡志』が編纂された大正7年頃までは、横須賀市東浦賀町東林寺の参道を下りる途中に「アンジン屋敷」と伝える一画があったのである。
<注>
平成21年 横須賀市発行の浦賀志録刊行委員会編による『浦賀志録(上)』では、『浦賀志録』の当該引用部分は、「志録補遺 第十三節 東浦賀ノ古名ト旧道」の
P230 に 収載されている。
撮影:2019-04-25