新設:2009-01-01
更新:2022-11-13
三浦按針終焉の地
撮影:2009-05-11
平戸市木引田町の十八銀行右隣の「白石ピアノ教室」前に「三浦按針終焉の地」碑がある
碑右面に1620年(元和6年)5月16日
居宅であった此の地
(木田弥次右衛門宅)にて逝去す
当時57才
と刻されている
按針の館
イギリス人ウイリアム・アダムスは、オランダ艦隊の航海長として、マゼラン海峡を経て1600年豊後に漂着しました。日本に着いたのは5隻のうちリーフデ号ただ一隻、2年の歳月と481人の乗組員の中で動けるもの十数名という過酷な航海でした。
時は関ヶ原の戦いの年、徳川家康の外交顧問として、神奈川県三浦郡逸見村に知行地を受け、三浦按針と名のりました。
平戸の城主松浦鎮信は漂着したリーフデ号の乗組員をマレーのバタニアへ送り届けたことで、1609年オランダ商館が建ち、1613年イギリス商館が設置されました。平戸には堺の商人など多く集まり、西の都として栄えました。
按針は日本と交易する諸外国と公平な立場から商館には住まず、当木田弥次右衛門宅を住まいとし、在宅中はイギリス国旗を掲げて1620年5月16日57歳にして病に倒れ、遠見の外人墓地に埋葬されています。当時三浦按針が住まいしたことから、当屋敷を按針の館とよんでいます。