新設:2009-01-01
更新:2022-11-13
解説 ウイリアム・アダムスとヤン・ヨーステン
撮影:2009-05-12
【ウイリアム・アダムスとヤン・ヨーステン】
1588年 スペインからの独立のためオランダ艦隊はスペインの無敵艦隊を打ち破る 新興国の意気に燃ゆるオランダは東洋貿易に全力をあげた 印度洋を避け新航路として南アメリカの南端を廻る太平洋の航路開拓を計画し1598年6月27日 5隻の武装船団は堂々と出航した
しかし 途中の困難は言語に絶した 約1年を経て南米のマゼラン海峡で氷に閉ざされること9ヶ月 やっと待望の太平洋に出たが スペイン人と戦い 土人に襲われ 大暴風雨に遭い やっと日本の島影即ち佐志生にたどりついたのは 1600年4月19日であった
船は破損し110人の乗組員も僅かに24人 そのうち6人は死亡し葬られた しかし 村人の親切な看護で18人は助かった その報告を受けた徳川家康は代表を上がらせるよう命令した 最も元気であった英人ウイリアム・アダムスと蘭人ヤン・ヨーステンが家康に呼ばれた
後に2人はそれぞれ家康から重用され家臣にされた アダムスは今の三越附近に屋敷を賜った その町を按針町と呼んだ 江戸の人はアダムスを三浦の按針と呼んだのによる ヨーステンの屋敷の地をまた八重洲河岸と呼んだ 東京駅の八重洲口附近である
アダムスは家康に世界の情勢や天文数学までも教えたと言われる 2人は家康に祖国(イギリス・オランダ)との貿易の有利さを進言し許可を得た その時の許可書には日本のどの港でも貿易してよいとあったと言う
しかし 家康が逝って2代将軍秀忠になると極端に冷遇され 永い間かかって得た許可書は平戸においてのみとなっていた イギリス・オランダはそれぞれ平戸に商館を開いて日本との貿易を競ったが オランダが遂にイギリスを押え 明治維新まで長崎で交易していた
家康の死によって希望を失った按針は平戸に引揚げて 日本在住20年にして淋しく没し 平戸の外人墓地に葬られた この2人には第1歩を印した佐志生は忘れ得ぬ思い出の地であったであろう