新設:2010-06-30
更新:2022-11-13
エラスムス像伝来
撮影:2010-06-08
【曹洞宗貞正山龍江院 案内書】
此の草深い栃木県の西南端にある 禅宗龍江院の山門をくぐると左手に 小さな観音堂があります。此の観音堂に 徳川の初期から大正の末期まで 観音様と一緒に「カテキ様」という木像が安置されていた。むずかしく書けば「貨狄尊」である。
だが 土地の人達の付たアダ名は 「アズキトギ婆(ばばあ)」と云った。夜中にお堂の中でザツザツとアズキをとぐような音がすると云うのである。子供達が親の云うことなどをきかぬ時は
アズキとぎ婆がやってくるぞと 大人達におどかされたものだそうだ。
それだけではなく 此のカテキ様は夜な夜なムジナに化けて村内をうろつき、村人をだましたとか、チャンピロリン チャンピロリン と歌ったとか、とにかく村人にとっては得体の知れない仏像だったのである。
こういう因縁で、エラスムス像はある種の仏様と間違えられ 村人達にこわがられ、腰の小穴はムジナに化けた時、村人に鉄砲で打たれたキズだなどと云われていた。
此のカテキ様を広く世間に紹介したのは 栃木県考古学の草分けである足利市の故丸山瓦全氏で 丸山氏は此れをキリシタンの宣教師と考え 考古学者坪井九馬三博士の教示により
カテキ様とはカテキスム(カトリック教の教理を問答体でやさしく書いたもの)またはカテキスタ(信者と教理問答を行う役僧)から出た名前だろうとの説を述べ
又 新村出博士はこれは中国の伝説で船の発明とされている貨狄のことであって、そう呼んだのであろうと推定している。
此れがきっかけで これまで人知れず埋もれていた此の木像が 学者達の注意を集めだした。さらに エラスムス像の写真が大正13年のクリスマスから2年間
バチカン市で開かれた世界宗教博覧会に「在日本キリスト教聖人像」として出品されて西洋の学者の注目をひき 村上直次郎、新村出博士らの南蛮学者や駐日オランダ公使通訳官スネレン氏らの研究により
実はオランダが生んだ偉大な人文学者デジデリウス・エラスムス・ロッテルダムス(1469~1536)の木像であることがわかった。
顔つきがハンス・ホルバインやアルブレヒト・デューラーなどの巨匠が描いたエラスムスの肖像によく似ており また木像が持っている巻物には(ERA・MVS R・・TE・・M 1598)とあって これが「エラスムス・ロッテルダム」と判読されたからだ。大正15年の事である。
それでは なぜ此のオランダ船に付いていたエラスムス像が海なし県の栃木県にもたらされたか、いろいろ異説もあり詳細はわからないが、エラスムス像はリーフデ号の船尾像で臼杵城主太田一吉に贈られたが、その年関ヶ原の役が起り、石田三成に味方した一吉は隣接の岡城主中川秀成に攻められて
像を城に残して逃げ出し、臼杵には稲葉氏が封ぜられた。
やがて寛永14年(1637) 島原の乱が起ると、城主稲葉一通はいち早く当時府内(大分市)にいた幕府の目付牧野伝蔵成純を通じて幕府に報告、その通知が敏速だったというので幕府の賞美を受けた。
そこで 稲葉一通は感謝の意をあらわすため 軍監として島原へおもむいた牧野成純が江戸に帰る時 臼杵城内に置かれていたエラスムス像を贈ったが、この牧野成純の菩提寺が龍江院で、成純が像を龍江院に納めたのである。
エラスムス像は昭和5年に国宝に指定され 同時に東京国立博物館に寄託し、現在に至っています。其後昭和25年重要文化財に指定替になった。此のリーフデ号には安針ウイリアム・アダムス及ヤン・ヨーステン等の人々が乗船していた。
龍江院 先代住職 大澤 雄鳳(1979年記)
【エラスムス像伝来の異説】
上記【曹洞宗貞正山龍江院 案内書】が記されたのは1979年であるが その後 リーフデ号が解体された処が浦賀湊であることに鑑み 鈴木かほる氏が異説を称えている。その異説紹介ページ【リーフデ号の浦賀回航および解体とエラスムス像】を参照されたい。