西暦 | 和暦 | 年令 | 事項 |
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1866 | 慶應 2 | 0才 | 幕臣の子として江戸で誕生 (詳細不明) 『神奈川県名鑑』に明治2年誕生との記載があるが 東京大学予備門受験資格の最少年令が13であり 明治2年は誤り |
1879 | 明治12 | 13才 | 9月 東京大学予備門入学(出身地は静岡との記録) (中途退学) |
1887 | 明治20 | 21才 | 2月 神奈川県警部補 |
1890 | 明治23 | 24才 | 10月 神奈川県警部 |
1901 | 明治34 | 35才 | 12月 神奈川県庁蜀となり通訳官 明治36年10月 解官 |
1903 | 明治36 | 37才 | 露国神聖スタニスラス第三等勲章の贈与を受ける(国立公文書館蔵-アジア歴史資料データベースによる) |
1904 | 明治37 | 38才 | 米国セントルイス万国博覧会の神奈川県出品協会事務長として渡米 同年9月帰国 11月復職 警部兼神奈川県庁蜀官 |
1905 | 明治38 | 39才 | 5月 横須賀逸見の按針塚発掘調査に関わり英国要人対応通訳 8月 周布公平神奈川県知事の代理人として理学博士坪井正五郎邸で『安針塚実査報告』を受領し『復命書』を添えて周布知事に報告 (岡田佳太郎が坪井正五郎を訪問した折に、岡田が坪井に渡した岡田の名刺を東京大学大学院情報学環が所蔵している) |
1906 | 明治39 | 40才 | 6月 神奈川県警視に昇進し横浜水上警察署長に就任 |
不明 | 不明 | 不明 | 日露戦役の功により正七位勲七等に叙せられ賜金を拝受 (『開港五十年紀念横浜成功名誉鑑』による) |
1909 | 明治42 | 43才 | 3月30日(火)発行『官報 第7725号』の「叙任及辞令」欄に、「明治四十二年三月二十九日 四級俸下賜 神奈川県警視 岡田佳太郎」の掲載あり |
1910 | 明治43 | 44才 | 7月 横浜商況新報社が刊行した『開港五十年紀念 横浜成功名誉鑑』に紹介され、「横浜市伊勢町二丁目三八」の掲載あり |
1914 | 大正 3 | 48才 | 8月5日(水)発行『官報 第604号』の「叙任及辞令」欄に、「日光行幸行啓供奉被仰付(以上八月四日宮内省)神奈川県警視 岡田佳太郎」の掲載あり |
1919 | 大正 8 | 53才 | 横浜共運(株)創立とともに専務取締役に就任 (『神奈川県名鑑』による) |
1922 | 大正11 | 56才 | 6月 抵当流れで新所有者となった地主から地代の2~5倍の値上げ通知を受けて、横浜の西戸部町境之谷・一本松並びに平沼町などに散在する借地人50余名・借家人500余名を代表する交渉委員に岡田佳太郎外6名が選ばれた |
1929 | 昭和 4 | 63才 | 交詢社刊『日本紳士録』第33版に 初めて「横浜共運(株)社員、中、西戸部、八一五」と掲載されたが、会社設立の大正8年から専務であったと後掲『神奈川県名鑑』にある |
1933 | 昭和 8 | 67才 | 横浜共運(株)代表者(横浜市社会課『横浜港仲士労働事情調査』による) |
1935 | 昭和10 | 69才 | 12月 横浜貿易新報社刊『神奈川県名鑑』では「中区南太田町庚耕地一、二九七」の掲載あり |
1936 | 昭和11 | 70才 | 交詢社刊『日本紳士録』第40版に「横浜共運(株)専務、中、西戸部八一五」と掲載されたのを最後に、以降『日本紳士録』に掲載されていない |
19?? | 昭和?? | ??才 | 逝去年月日不明 昭和43年(1968)10月23日 内閣刊『明治百年記念関係行事等概況』掲載の同年10月31日現在満100才以上高令者名簿に掲載ナシ 存命なら102才 |