西暦 | 和暦 | 年令 | 事項 |
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1863 | 文久 3 | 0才 | 正月5日 江戸両国の矢ノ倉で誕生 父は信良(幕府奥医師) 母は坪井信道(蘭方医)の長女万喜 |
1876 | 明治 9 | 13才 | 9月 東京英語学校に入学 |
1877 | 明治10 | 14才 | 9月 東京大学予備門に入学 この頃から『小梧雑誌』を自ら作り数年継続 |
1879 | 明治12 | 16才 | 井上円了等と夜話会を組織し演説を練習 |
1881 | 明治14 | 18才 | 7月 予備門を卒業し 9月 帝国大学理学部生物学科に入学 11月 福家梅太郎(駒場農学校在学)と目黒村で石器時代遺跡を発見 |
1884 | 明治17 | 21才 | 3月 有坂鉊藏・白井光太郎と本郷弥生町で土器を発見(後に弥生式土器と称した) 10月 白井光太郎・佐藤勇太郎・福家梅太郎等の同志と人類学会を創立し 第1回集会を開催 |
1886 | 明治19 | 23才 | 2月 『人類学会報告』第1号刊行 7月 理学部動物学科卒業 7-9月 足利古墳発掘 9月 人類学研究の目的で大学院入学 |
1887 | 明治20 | 24才 | 4-5月 伊豆諸島を巡回調査 8月 埼玉県吉見百穴調査で新たに220余を発見 |
1888 | 明治21 | 25才 | 7-9月 北海道アイヌを調査 9月 理科大学助手 同月パリ万博に人類学上参考とすべき画を出品 |
1889 | 明治22 | 26才 | 5月 助手を解職され 人類学研究のため3年間英仏留学を命ぜられた |
1892 | 明治25 | 29才 | 10月 帰朝し理科大学教授 12月 東京市西ヶ原貝塚調査 |
1893 | 明治26 | 30才 | 9月 人類学講座を担任 |
1896 | 明治29 | 33才 | 10月 人類学会会長 |
1897 | 明治30 | 34才 | 12月-翌4月 芝円山古墳群調査 |
1899 | 明治32 | 36才 | 2月 理学博士の学位を授与された |
1902 | 明治35 | 39才 | 7月 明治天皇大学臨幸の際「日本太古の住民」と題して進講 |
1905 | 明治38 | 42才 | 5月『人類学講義』刊行 8月『安針塚実査報告』を柴田常恵と連名で作成し、周布公平神奈川県知事に提出(実査は5月) |
1907 | 明治40 | 44才 | 2月 『人類学叢話』刊行 7月 樺太に人類学研究のため出張 |
1909 | 明治42 | 46才 | 5月 諏訪湖のソネ遺跡調査 |
1910 | 明治43 | 47才 | 9月 東京大学文学部史学科初の考古学の講義を担当 |
1911 | 明治44 | 48才 | 7月 欧米・インド等に出張 |
1912 | 明治45 | 49才 | 3月 帰朝 4月 柴田常恵と大阪府城山古墳調査 |
1913 | 大正 2 | 50才 | 5月11日からペテルブルグで開催の第5回万国学士院連合大会に出席のため 4月20日 東京を出立 5月26日 アレキサンドリヤ病院で死去 |
西暦 | 和暦 | 年令 | 事項 |
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1877 | 明治10 | 0才 | 名古屋市大曽根町浄土真宗瑞忍寺で住職柴田恵明の3男として誕生 |
1897 | 明治30 | 20才 | 単身上京 苦学して私立真宗東京中学高等科入学 |
1899 | 明治32 | 22才 | 私立郁文館中学内の史学館入学 坪井正五郎の講演を聴き考古学に興味を持つ |
1901 | 明治34 | 24才 | 台湾総督府学校講師 |
1902 | 明治35 | 25才 | 東京帝国大学雇を命ぜられる 10月 美濃国可児群陵山古墳調査 |
1904 | 明治37 | 27才 | 12月 静岡県下に出張し銅鐸出土地を実査 |
1905 | 明治38 | 28才 | 先夫人信子と結婚(昭和16年没) 2月 埼玉村将軍塚調査 8月『安針塚実査報告』を坪井正五郎と連名で作成し、周布公平神奈川県知事に提出(実査は5月) |
1906 | 明治39 | 29才 | 東京帝国大学理学部人類学教室に助手として勤務 10月 上総国内裏塚発掘調査 11月 上野国藤岡町諏訪神社古墳発掘調査 |
1911 | 明治44 | 34才 | 九州地方に出張調査 筑後国上楠田他の石人石馬調査 |
1912 | 明治45 | 35才 | 2月 千葉県我孫子古墳調査 |
1916 | 大正 5 | 39才 | 3月 常陸国吉田古墳調査 |
1917 | 大正 6 | 40才 | 柴田常恵の増補により 第4版「日本石器時代遺物発見地名表」成る |
1918 | 大正 7 | 41才 | 7月 越中大境洞窟住居調査 |
1920 | 大正 9 | 43才 | 史蹟名勝天然紀念物保存法(大正8年4月10日法律第44号)の施行により同調査嘱託となり内務省地理課に勤務 |
1921 | 大正10 | 44才 | 東京帝国大学文学部標本調査嘱託 |
1924 | 大正13 | 47才 | 東北地方に調査旅行 羽前国最上郡豊里村で球形土製品を見る |
1925 | 大正14 | 48才 | 東京都下高ヶ坂で最初の敷石住居跡を確認 |
1927 | 昭和 2 | 50才 | 文部省史蹟名勝調査嘱託――内務省の事務移管に伴うもの |
1928 | 昭和 3 | 51才 | 埼玉県庁内に埼玉県史編纂会設立され その監修に就任 |
1929 | 昭和 4 | 52才 | 埼玉郷土会を設立に伴い顧問となり 月刊『埼玉史談』刊行 |
1932 | 昭和 7 | 55才 | 慶應義塾大学の日本考古学担当講師となり昭和18年(1943)まで継続 |
1935 | 昭和10 | 58才 | 2月・5月 埼玉県下の八幡山古墳発掘調査 |
1936 | 昭和11 | 59才 | 帝室林野局嘱託 神奈川県日吉の弥生式集落調査 |
1937 | 昭和12 | 60才 | 5月 日吉加瀬白山古墳・第六天古墳調査発掘 10月 日吉矢上古墳発掘調査 |
1938 | 昭和13 | 61才 | 日吉観音松古墳発掘調査 5-7月 慶應義塾大学派遣の支那調査団に参加 |
1940 | 昭和15 | 63才 | 武蔵野三十三新観音霊場を設ける |
1954 | 昭和29 | 75才 | 12月1日 永眠 |
西暦 | 和暦 | 年令 | 事項 |
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1851 | 嘉永 3 | 0才 | 嘉永3年12月6日(西暦1851年1月7日) 長州藩士周布政之助二男として 長門国萩城下(現山口県萩市)で誕生 幼名金槌 |
1864 | 元治元 | 13才 | 8月 下関戦争に従軍 |
1866 | 慶應 2 | 15才 | 第2次幕長戦争に従軍 |
1871 | 明治 4 | 20才 | 2月 藩命により ベルギーに留学 1874年 英国に移る 1876年1月 帰国 同5月 司法権大丞 |
1877 | 明治10 | 26才 | 1月 廃官 |
1878 | 明治11 | 27才 | 5月 法制局御用掛 8月 太政官権少書記官・法制局専務 |
1879 | 明治12 | 28才 | 5月 兼宮内省御用掛 11月 太政官少書記官 |
1880 | 明治13 | 29才 | 3月 法制部専務 |
1881 | 明治14 | 30才 | 7月 太政官大書記官 10月 参事院議官補 12月 兼宮内省御用掛 |
1884 | 明治17 | 33才 | 6月 兼制度取調局御用掛 |
1885 | 明治18 | 34才 | 7月-翌年(1886)1月 万国商法編輯会議副委員としてベルギー出張 12月 法制局法制部長 |
1887 | 明治20 | 36才 | 8月 在ローマ公使館参事官 |
1889 | 明治22 | 38才 | 7月 帰国 12月 内閣書記官長 |
1890 | 明治23 | 39才 | 2月 官制調査委員長 報告書取調委員長 5月 貴族院書記官長事務代理 10月-1912年1月 貴族院議員 |
1891 | 明治24 | 40才 | 6月 兵庫県知事 (1897年4月7日まで) |
1897 | 明治30 | 46才 | 12月 行政裁判所長官 翌年11月 依願免本官 |
1900 | 明治33 | 49才 | 6月 神奈川県知事 (1912年1月12日まで) 明治38年(1905)8月25日 坪井正五郎・柴田常恵共述『安針塚実査報告』受領 |
1912 | 明治45 | 61才 | 1月 枢密顧問官 大正8(1919)7月 68才 依願免本官 |
1921 | 大正10 | 70才 | 2月15日 死去 |