新設:2009-01-01
更新:2019-02-14
按針夫妻供養塔・按針塚
按針塚碑・安鍼塚碑
史蹟指定標石
塚山公園保存会
按針塚への道標
浄土寺(菩提寺)
按針忌(逸見)
鹿島神社(逸見)
按針祭・観桜会
按針フェスタ
按針讃歌
按針を讃え憶う漢詩
按針ステンドグラス
按針像(自然人文博物館)
リーフデ号浦賀回航
メッドウェイ(姉妹都市)
帆船(ガラス瓶入)
東京湾の按針丸
NHK大河ドラマに!
按針セミナー
三浦按針夫妻供養塔(按針塚)
三浦按針夫妻供養塔(按針塚)
塚山公園からの眺望
(供養塔傍案内板より)
市制施行七十周年記念
横須賀風物百選
三浦按針夫妻墓
墓石は、江戸期の宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、国指定の史跡となっています。右が按針の墓で、左がその妻の墓です。
三浦按針は、本名をウィリアム・アダムズと言い、一五六四年にイギリスのケント州ジリンガムで生まれました。少年時代の十二年間を造船工として働き、成長して海軍に入り、航海長や船長をつとめました。のちに、オランダのファン・ハーヘン会社の東洋探検隊に加わり、リーフデ号の航海長として一五九八年に東洋へ向かいました。
慶長五年(一六〇〇)、台風に遭い、生き残った乗員二十四名と共に豊後国(大分県)臼杵に漂着しました。
徳川家康は、三浦按針を高く評価し、政治・外交顧問として重く用い、江戸日本橋に屋敷を、この地逸見村に二百五十石の領地を与えて厚遇しました。三浦の姓は、この三浦の地を領地としたことにより、按針の名は、水先案内人を当時按針と称していたことによります。
この頃の按針は、家庭的にも恵まれ、江戸日本橋大伝馬町の名主馬込勘解由(まごめかげゆ)の娘を妻とし、ジョセフとスザンナの一男一女をもうけました。
家康の亡きあとは不遇となり、元和六年(一六二〇)五月一六日に平戸の豪商木田弥次右衛門宅で病死しました。享年五十七歳でした。
この地に供養塔が建てられたのは、「我死せば、東都を一望すべき高敞(こうしょう)の地に葬るべし、さらば永く江戸を守護し、将軍家の御厚恩を泉下に奉じ奉らん」との按針のことばに従ったものと言われています。
毎年四月八日、按針の遺徳をしのび、国際色豊かな記念式典が行われます。
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安鍼塚碑 (按針塚碑)
安鍼塚碑の表面上部
安鍼塚碑の表面
正面樹木右の柱状が修理竣工標石
左奥の柱状が史蹟指定標石
正面白色状は史跡永久保存案内
階段は按針塚へ
階段を登ると正面に按針塚
右に安鍼塚碑がある
碑に刻された俗字などの中には、Unicode(UTF-8)でも表示できない文字があるため、Unicodeで表示可能な文字に置き換えた。文字に間違いがあれば本サイト管理人(按針亭管理人) 宛に連絡いただければ幸いです。
なお、碑は、按針塚右手前にあって、碑建立時の一流の人が、碑文を作成、書し、刻字しているが、碑文には見逃すことができない誤謬があると幸田成友(こうだしげとも)が昭和9年に「三浦按針餘談」で指摘している。
2009年6月時点では、碑の前方は樹木に蔽われているため、按針塚を訪ねる人の中には碑文に気付かないまま立ち去ってしまう方がいると思われる。
~碑文の横書は次のとおり~
正二位大勲位侯爵井上馨篆額
塚者葬維廉亞達母斯氏處氏世稱安針英國堅特州紀林翰人慶長三年駕
蘭舩航東洋遭颶風漂蕩三年達豐後海岸時徳川家康在大阪召見移之江
戸賜邸令日本橋區安針街是也家康擢氏為譯官或顧問試命造洋形船成
稱意又爲砲術地理數學等師範或從事外商貿易頗有功績因賜相模三浦
郡逸見村二百五十石之地為食邑元和六年四月十四日病歿氏臨終遺嘱
曰吾漂來此國暖飽至令皆徳川將軍之恩也宜葬吾於逸見山巓令東面其
墓可以望江戸泉下有靈永保護此都佛諡曰壽量滿院現瑞居士妻馬籠氏
生二子皆夭寛永十一年七月十六日妻亦歿合葬于此佛諡曰海華王院妙
滿比丘宅阯猶在村中香火院曰淨土寺傳遺物二種云明治三十八年神奈
川縣知事周布君公平歎其墳墓之頽廢於寒煙荒草中與英國公使麻克竇
納爾海軍大將井上男及英商惹斯倭爾太謀募金修繕之有栖川威仁親王
英國亞礼爾康納特親王竝賜保護令旨我搢紳富豪及英國人爭喜捨獲貳
萬圓許乃用其半修墳墓擴兆域植花木置守戸名曰塚山貯其半充永久保
存之費因又建碑不朽其人属余作銘銘曰
嗟安針氏 海外漂寓 有功國家 報以恩遇
義不忘恩 生死仰慕 永護江都 東面其墓
大正三年十月 從三位勲二等文學博士三島毅撰
從六位勲五等高島張輔書 井龜泉刻字
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按針塚の修理竣工標石と史蹟指定標石
按針塚の修理竣工標石
標石表
ウ井リアム・アダムス夫婦墳墓在於塚山絶頂
標石裏
明治三十八年有志者胥謀欲修理
墳墓茲工竣因建此標石
明治四十三年五月
神奈川縣知事 男爵 周布公平
大不列顛特命全權大使 ゼ・ライト・オーラブル・サー・クロード・ヱム・マグドナルド
本標石は、按針塚(三浦按針夫妻供養塔)へ登る階段の左下にある
按針塚の史蹟指定標石
標石正面
史蹟 安針塚
標石右側
史蹟名勝天然記念物保存法ニ依リ
大正十二年内務大臣指定
標石左側
大正十三年六月建設
中央樹木の陰に上記の按針塚の修理竣工標石がある
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塚山公園保存会の碑
塚山公園保存会創設十周年記念碑
碑表面
県立 塚山公園
塚山公園保存会 神奈川県知事 長洲一二 書
碑裏面
蹟按針塚を中心とする塚山公園一帯が 戦後の荒涼たるありさまに 地元有志は 公園の維持管理を決意し 全町民の協力を得て 昭和四十二年一月 県立塚山公園保存会を発足させ 美化整備に奉仕してきた
このたび 会 創設十年にあたり 郷土愛の心を 末永く継承せんことを祈念して 記念碑をここに建立する
昭和五十二年十一月二十七日
県立塚山公園保存会
史跡永久保存 協力の呼びかけ
史跡の永久保存
私達は、ウイリアム・アダムス、日本名「三浦按針」とその妻の墓を永久保存するため、西暦1966年(昭和41年)に塚山公園保存会を設立して以来、清掃奉仕を継続しています。
毎年4月には、横須賀市主催の四大国際式典である三浦按針祭が盛大に開催されます。日英両国民の友好の証として、この史跡を大切にして下さい。
横須賀市西逸見町 県立塚山公園保存会
Permanent Preservation of Historical Relics
In 1966, we established the Association of preservation of Tsukayama-Park
in order to permanently preserve the graves of William Adams, Japanese
name "MIURA ANJIN" and his wife. Since then, we have been continuing
the cleaning services and maintenance of the area.
The annual memorial ceremony is held every April and is recognized as one
of the four magnificent international events in the city Yokosuka. Please
cherish these historical relics in honor of keeping good ralationship between
the people of the United Kingdam and Japan.
The Society of Preservation of Tsukayama
Prefectual Park
Nishihemi-cho, Yokosuka City
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安針塚への道標(3基)
1.JR横須賀駅前安針塚山へ約十五町
3.按針塚登り口安針塚山へ約五町
2.汀橋近く安針塚山へ約十一町
按針塚登口階段左中程に道標
横須賀市役所サイト では、三浦按針(ウィリアム・アダムズ)夫妻の供養塔(按針塚)への道標について説明されています。
道標は次の3箇所にあり、按針塚までの概ねの距離が示されています。
1.JR横須賀駅前 : 約十五町(約1636m) 1M(1マイル:約1609m)
2.汀橋近く16号沿 : 約十一町(約1200m) 2/3M(2/3マイル:約1073m)
3.按針塚登り口 : 約五町(約551m) 1/3M(1/3マイル:約536m)
何れの道標も、上述した按針塚までの距離の外に、「大正十年二月十五日」と「WILLIAM ADAMS TOMB」が刻されています。
(ただし、3番目の道標では、一部文字がコンクリートで埋まっています)
按針塚登り口にある道標説明では、明治38年(1905年)から大正10年(1921年)にかけて「安針塚」修理事業の一環として建てられこと、また横須賀市指定市民文化資産であることが記されています。
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浄土寺(三浦按針菩提寺)
門前から本堂を望む
戻って来た梵鐘
本堂
按針ゆかりの念持佛と唄多羅葉(寺宝)
逸見住職の按針の話を熱心に聞く
日英スタッフ・キャスト一同
(写真は浄土寺提供)
サイト「三浦按針の菩提寺 」へ
サイト「青い目のサムライ 三浦按針 」へ
浄土寺は、正式名称を濤江山浄土寺(とうこうざん じょうどじ)といい、親鸞聖人を開祖とする浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺で、三浦按針の菩提寺であったといわれています。
寺宝として三浦按針ゆかりの念持佛(観音菩薩立像)と唄多羅葉(ばいたらよう)が伝わっており、三浦按針没後220年経った1840年には江戸按針町から三浦按針の法要に際し豪華な刺繍が施された打敷が寄進されています。
浄土寺は、横須賀市西逸見一丁目11番地にあって、京浜急行逸見駅から徒歩3分、JR横須賀駅から徒歩10分の位置にあり、三浦按針の屋敷があったといわれる鹿島神社北側の直ぐ傍にあり、隣に逸見小学校があります。
浄土寺は、鎌倉時代の武将・畠山六郎重忠が建立したとされ、室町時代に浄土真宗に改宗する前は天台宗であったとのことです。
太平洋戦争末期の1945年7月に浄土寺の梵鐘は兵器製造用に使うため日本軍に供出させられました。終戦後アメリカに送られアトランタの公園に十数年置かれていたそうですが日米修好百周年を記念して1961年5月に浄土寺に戻されました。しかし、鐘楼が壊されてしまっていたため、梵鐘の響きは現在も聞くことができません。
1961年1月28日付神奈川新聞に掲載された梵鐘返還を伝える記事
現在の住職は、逸見道郎(へんみみちお)氏で、2007年11月、「かまくら春秋社」から「青い目のサムライ 按針に会いに」(ISBN978-4-7740-0378-8)を出版し、2008年9月12日には英国メッドウェイ市(三浦按針生誕地ゆえに横須賀市の姉妹都市)において開催された「第2回「日英交流150周年記念 歴史上の人物誌セミナー」にてウィリアム・アダムスに関する講演をしています。
なお、 浄土寺の山号に使われている「濤」の字は「なぎさ」を意味しているとのことであり、かっては三浦三十三観音霊場第20番の札所でありました。
サイト「青い眼のサムライ 三浦按針 」では、「三浦按針と按針ゆかりのまち・逸見」が紹介されています。
ホリプロの創立50周年記念事業の一環として 日英合作舞台「按針 イングリッシュサムライ ANJIN 」が、2009年12月10日~2010年1月18日
(東京)天王洲銀河劇場で、2010年1月22日~2010年1月31日 (大阪)梅田芸術劇場 シアター・ドラマシティで 上演されました。
上演に先立ち 舞台稽古が始まった最初の休日(2009年11月8日) 日英スタッフ・キャストが浄土寺、按針塚および鹿島神社を訪問されました。浄土寺の本堂では
逸見道郎(へんみみちお)住職から三浦按針ゆかりの品々などについて説明を受けました。
当該日英合作舞台「按針 イングリッシュサムライ ANJIN 」プログラムと劇場ロビー展示パネルに当サイト「按針亭」掲載の按針ゆかりの写真5点が使われました。
写真撮影:2009-4-5
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按針忌
第2回按針忌開催記念植樹
左から蒲谷、田中および松浦の各氏
右端は逸見浄土寺住職
濤江山浄土寺本堂
(按針の町・逸見を愛する会主催)
2009年4月5日(日) 第2回按針忌が、西逸見の濤江山浄土寺で開催されました。
浄土寺山門脇で桜の記念植樹が、蒲谷亮一横須賀市長、松浦章平戸藩第41代当主および田中信昌按針のまち逸見を愛する会会長の3人により行われた後、本堂に於いて三浦按針(ウイリアム・アダムス)の法要が営まれ、同時進行で松浦章氏(茶道鎮信流宗家)による献茶式が行われました。
法要後、山本詔一氏(郷土史研究家)が 三浦按針に因んだ記念講演を行いました。
なお、三浦按針が持ち歩いたといわれる念持佛(観音菩薩立像)が 3月30日(月)から4月8日(水)まで 特別御開帳されました。
主催者の「按針の町・逸見を愛する会」は、三浦按針(ウイリアム・アダムス)ゆかりの逸見・按針塚の歴史や自然環境を大切にし、次代に継承するとともに、町の活性化・町おこしを願う人々が集う会とのことです。
同会は、三浦按針に縁(ゆかり)のある地(英国メッドウェイ市、静岡県伊東市、長崎県平戸市、東京都日本橋など)と交流をしながら、三浦按針の功績を伝え遺徳を偲びつつ、地域の文化に寄与するイベントの開催および「按針新聞」の発行などの活動を行っています。
写真撮影:2009-4-5
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鹿 島 神 社
社殿を望む
由緒板
(鹿島神社由緒板より)
鎮座地
横須賀市西逸見二丁目七〇番地
祭 神
武甕槌命(タケミカズチノミコト)
由 緒
応永十七年(一四一〇年)四月三浦遠江守が勧請と伝えられる足利義持の頃である
新編相摸風土記に左の如く書いてある
村の鎮守神体木像(長サ一尺二寸)像背に応永十七年と銘あり又その文に
大擅那三浦遠江守子時応永十七年寅卯月初八日五郎四郎□□仏師某敬と記し花押あり又天正二年(一五七四年)織田信長の時代に朝比奈六太夫が社殿を造営した棟札があった
又寛永十三年(一六三六年)八月二十四日三浦安針ウイリアムアダムスの子二代目安針が社殿を造営した古来逸見町海上自衛隊地方総監部の海岸にあったが明治二十四年七月二十八日の夜乞食の失火で社殿を全焼したので明治二十九年六月五日現在の位置に新築したそれまで九月二十九日が例祭であったが遷宮日の六月五日を祭日と定めた
明治四十一年町内の六社を合併し今日に至る
<注>
鹿島神社の現在地は、三浦按針の屋敷があったところといわれています。
ここでは、縦書を横書に変えて記した。
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三浦按針祭観桜会
William Adams Cherry Blossom Party
横須賀市役所サイト
三浦按針(ウィリアム・アダムズ)を偲ぶ式典が、毎年4月8日に横須賀市の重要な行事として 神奈川県立塚山公園で、イギリス、オランダなどの関係者の参加を得て国際色豊に開催されています。
上記サイトでは、三浦按針(ウィリアム・アダムズ)を偲ぶ 横須賀市主催式典「三浦按針祭観桜会」と「三浦按針」が紹介されています。
2012年4月8日は、幸い好天に恵まれ、満開の桜が散り始めようとする中で、地元逸見観光協会の協賛もあって、盛大に開催されました。
本行事は、第2次世界大戦終了後の昭和23年(1948年)に再開され、2012年は再開第65回目でした。
復活した当初の按針祭では、逸見小学校と沢山小学校の生徒が1年おきに交替で、按針供養塔で按針を慕う歌「按針讃歌 :昭和23年(1948)作曲」を合唱していたとのことです。
横須賀市が旧ジリンガム市(現メッドウェイ市)と1982年4月8日に姉妹都市提携してから 2012年4月8日は満30年に当たっていたので、メッドウェイ市長(テッド・ベイカー氏)およびメッドウェイ元市長(スーザン・ヘイドック氏)からメッセージ(左写真)が寄せられてました。
伊東市(静岡県)の黒木仁子(くろき きみこ)氏から同氏が制作した「按針物語」と題した紙芝居が横須賀市に寄贈されました。
これを受けて、2012年4月8日に 横須賀市長から黒木氏に感謝状が贈られると共に、同氏自ら紙芝居「按針物語」を上演しました。
三浦按針の尽力もあって開始された日本とオランダの通商は、 2009年に400年の節目となる記念すべき年に当たったので、「日本オランダ2008-2009」として日本全国各地で多くの行事が開催されました。
国会図書館のサイトに「江戸時代の日蘭交流」 があります。
「按針祭協賛塚山公園さくら祭」の主催者は 逸見観光協会です。
本欄掲載の写真は、2012年4月8日に開催された「三浦按針祭観桜会」で 按針亭管理人が撮影したものです。
写真撮影:2012-4-8
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按針フェスタ
浄土寺逸見住職の講演
浄土寺山門に立つ講演・コンサート看板
「按針フェスタ2015」が、2015年10月24日(土)に開催された。
「逸見地域ゆかりの三浦按針から逸見をもっと知ろう! そして逸見をもっとにぎやかにしよう!」といもので、前2014年に続く2回目の開催
主催は「逸見地域運営協議会」、共催:関東地方郵便局長会・局長協会、後援:横須賀市であった。
按針菩提寺・浄土寺の逸見道郎住職は、浄土寺本堂で「按針と逸見村の人びと~異文化交流の一断面」と題して、わかりやすく 熱のこもった講演をされた。
歩行者天国には 40超の店・町内会・団体が出店し、按針に因んだ食品(按針丼、按針タコライス、ミスター按針、按針かりんとう饅頭など)、按針グッズ(Tシャッツほか)、その他沢山の品々が販売された。
子供たちによるお囃子が鹿島神社で披露され、按針・妻(お雪)に扮した御成りが 子供たち・浄土寺住職を加えて行われた。
近隣学生をはじめとする多くのグループが出演したコンサートは、逸見小学校と浄土寺本堂で時間をずらして開催された。
終日 好天に恵まれる幸運も呼び込んで にぎわいだ 秋の一日であった。
「按針御成り」出発直前(浄土寺境内)
「按針御成り」浄土寺を出発
「按針御成り」(歩行者天国)
歩行者天国入口
「按針タコライス」販売
お囃子(鹿島神社境内)
「按針グッズ」販売
按針と家康を大河ドラマに
「逸見按針通り」フラッグ
「沢山のつつじを守る会」展示
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按針讃歌
1 桜楽しい14日 仲良し三浦の子供達
按針塚の花かげに 御霊(みたま) 祭りの賑やかさ
2 三浦按針アダムスの 故郷はイギリス ケント州
村は静かなギリンガム 子供時から海が好き
3 16世紀の末のころ 若い元気なアダムスは
五隻の船を従えて 錨を上げたヨーロッパ
4 7つの海に幸うすく 流れ流れてアダムスに
山河清い日本の 豊後(ぶんご) の浜は待っていた
5 恩愛(おんあい) 深い日本の 航海術の父として
ささげつくした半生の 今なおかおる逸見の里
6 三浦の海は美しく 三浦の秋はなつかしい
アダムス様よありがとう 今もお祭り続きます
当按針を慕う歌「按針讃歌」は、戦後、昭和23年(1948)に復活した頃の按針祭では、逸見小学校と沢山小学校の生徒が1年おきに交替で、按針供養塔で合唱していたとのことです。
なお、2013年頃から、浄土寺での按針忌法要、按針夫妻供養塔での三浦按針祭などで唄われるようになっています。
「按針讃歌」の歌詞は
小冊子「平成17年度 三浦按針と逸見 400年前に逸見をおさめた英国人 ウィリアム・アダムス」
作成:逸見地域文化振興懇話会「三浦按針と逸見」調査研究検討会、進行・編集:米山淳一・塚本雅啓、発行:横須賀市
に掲載されたものを転載させていただきました。
作詞:横須賀文化協会、作曲:米山正夫 と記載されています。
なお、作詞は 「新倉しげる」 との別情報があります。
「三浦按針と逸見」調査研究検討会の構成者は次の方々です。
代表 米山淳一
委員 東逸見第1町内会 堀田佳予子、小林功樹
委員 東逸見第2町内会 高橋達男、寺田豊
委員 東逸見第3町内会 大津進、加藤育子
委員 東逸見第4町内会 真鍋冱子、岩田孝雄
委員 逸見が丘町内会 板橋純男、竹口勘祐
委員 西逸見第1町内会 中村幸子、関口仁美
委員 西逸見第2町内会 田中信昌、金子浩吉
委員 吉倉町内会 岡野美雪、鈴木英明
委員 按針台自治会 高野和雄
委員 天空の街自治会 宮崎富美代、伊藤睦子
顧問 浄土寺住職 逸見道郎
顧問 按針愛好家 田口義明
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按針を 讃え憶う 漢詩
三浦按針夫妻の供養塔(按針塚)がある塚山(公園)の麓 ”按針のまち” に住む綿岡煌雲様が 「按針を讃え憶う漢詩(古詩)」2首を 平成27年(2015)に作詩して下さいました
七言古詩「三浦按針」は まさに 波瀾万丈 九死に一生の末に 徳川家康と邂逅(出会い)により生まれた 按針の数奇な半生を漢詩としたもの
五言古詩「按針を憶う」は 徳川家康に仕えた末 母国・イギリスに帰国すること叶わず 日本で生涯を終えた 三浦按針の胸中を推し量りつつ漢詩としたもの
三浦按針 綿岡煌雲
波 瀾 万 丈 起 海 難
一 生 九 死 呑 辛 酸
参 与 幕 政 碧 眼 士
青 山 東 方 人 生 完
七言古詩(上平声十四寒韻)
三( み ) 浦( うら ) 按針( あんじん ) 綿岡煌雲( わたおかこううん )
波( は ) 瀾( らん ) 万丈( ばんじょう ) 海難( かいなん ) より起( お ) こる
九死( きゅうし ) に 一生( いっしょう ) なるも 辛酸( しんさん ) を呑( の ) む
幕政( ばくせい ) に参( さん ) 与( よ ) す 碧( あおい ) 眼( め ) の士( サムライ )
東方( とうほう ) に 青山( せいざん ) あり 人生( じんせい ) 完( まっとう ) す
憶按針 綿岡煌雲
按 針 過 墳 墓
眠 妻 異 邦 岡
花 咲 鳥 禽 唱
風 伝 父 母 郷
五言古詩(下平声七陽韻)
按針( あんじん ) を憶( おも ) う 綿岡煌輝( わたおかこううん )
按針( あんじん ) の 墳( ふん ) 墓( ぼ ) を過( す ) ぐ
妻( つま ) と 眠( ねむ ) る 異( い ) 邦( こく ) の岡( おか )
花( はな ) は咲( さ ) き 鳥禽( とり ) は唱( うた ) う
風( かぜ ) よ 伝( つた ) えよ 父母( ちちはは ) の郷( くに ) へ
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三浦按針ステンドグラス
Miura Anjin Stained Glass
ウェルシティ市民プラザ2階アトリウム
吹き抜けガラス面を飾るステンドグラス
ウェルシティ市民プラザ2階アトリウム
内部から見るステンドグラス(日除けのブラインドが常時かけられている)
横須賀市西逸見町1-38-11にある「ウェルシティ市民プラザ(Wellcity Main Entrance Hall)」2階アトリウムの吹き抜けガラス面を飾るステンドグラスがある。
英国生まれの三浦按針が、オランダから苦難に満ちた長い航海の末、日本に辿り着き、青い目のサムライとして逸見に領地を与えられたことを伝えるもの。
そのステンドグラスの案内板が、ウェルシティ市民プラザ2階アトリウムに設置され、次のとおり記されている。
「三浦按針」-ウイリアムアダムス-
ここのアトリウムに飾られているステンドグラスは「三浦按針」が、イギリスから日本へやってきて、逸見村へ移り住んだ事実をモチーフにデザインされています。「三浦按針」-ウイリアムアダムス-は、日本にきた初めてのイギリス人です。
イギリスのジリンガム(現在のメドウェイ)に生まれたアダムスは、オランダの船に乗り、アジア航海中に遭難し、1600年4月にアダムスの乗ったリーフデ号だけが、豊後国(現在の大分県)の臼杵に漂着しました。
その後、徳川家康の信頼を得たアダムスは、幕府の外交顧問として活躍し、三浦郡逸見村に250石の領地をもらい、船の水先案内人を意味する「按針」にちなんで、「三浦按針」と名のりました。これを縁として按針の出身地であるメドウェイ市と横須賀市は、姉妹都市提携を行っています。
また、逸見町の高台にある塚山公園には、按針夫妻の供養塔が建てられています。
時を越え 海を越え
このステンドグラスはフランス製のアンティークグラス(手吹きガラス)を使用し、部分的に描かれている図柄は、ヨーロッパの古典絵付け技法による焼き付けで表現したものです。
この作品は、三浦按針がその生涯をかけて結んだ西洋と日本の架け橋を、400年の時を越えた、この空間に光で表現するために、按針がこよなく愛した海、そして横須賀の地をイメージしながら製作しました。
図柄には、アダムスが生まれ育ったイギリス、ジリンガム(現在のメドウェイ市)から海を越えて、横須賀の地まで、その生涯の出来事や記録をちりばめてあります。右上から「イギリス、メドウェイ市の市章」「同市の時計台」「現在残っているウイリアム・アダムスのサイン」「16~17世紀初頭のイギリスの地図」「デ・リーフデ号を含む5艘の船団」「羅針盤」「16世紀末の日本地図」「アダムスが日本で最初に創った西洋式大型船の設計図の一部」「按針の領地であった横須賀逸見周辺の風景」「按針塚の碑文の一部」「横須賀市の市章」などです。
ステンドグラス作家 志田政人
Miura Anjin - William Adams
The motif design of the stained gkass decorating this atrium depicts the
life of Miura Anjin who came to reside at Hemi Village in moderan-day Yokosuka
City. Miura Anjin, a.k.a William Adams, was the first Englishman to came
to Japan. Adams was born in Gillingham, England modern-day Medway, and
riding aboard a Dutch ship encountered great difficulty during his voyage
to Asia, and in April 1600 the "de Liefde" upon which Adams traveled
was the only ship to drift ashore at Usuki in Bungo (present-day Ooita
Prefecture). After this Adams gained the confidence of Tokugawa Ieyasu,
becoming active as a foreign diplomatic advisor for the Shogunate Goverment.
He received an estate of 250 bushels of rice at Hemi Village in the Miura
district, and came to be known as "Anjin" which means "pilot"
and given the name "Miura Anjin." Through this connection, Anjin's
birthplace of Medway City and Yokosuka City now cooperate in maintaining
close sister city relations. Also, on top of Tsukayama Park in Hemi-cho
stand the memorial gravestones for Miura Anjin and his wife.
Beyond Time and Sea
This stained glass uses antique glass (hand blown glass) made in France, and the designs in the various parts of the patterns were etched into the glass using techniques for old European book pictures. This stained glass was produced keeping in mind the image of Yokosuka area and Anjin's deep love for the sea, while expressing in the beautiful light of this open space the passinng of 400 years since Miura Anjin bridged the gap between Japan and the Western World. Contained within these patterns is recorded the events of Adams' life starting with the ocearn crossing from his birthplace and hometown of Gillingham (modern-day Medway) to the Yokosuka area.
From the upper right corner; the Medway City emblem, a Medway clock tower,
William Adams' signature as it remains today, an early 16t-17th century
map of England, the five-ship fleet including the "de Liefde,"
a compass, a late 16th century map of Japan, part of a diagram for the
first large-scale western-style ship drawn by Adams in Japan, scenery of
Anjins'estate in Hemi Yokosuka, part of an inscription on the Anjin Monument,
the Yokosuka Ciry emblem, and other designs.
Stainged Glass Artist
SHIDA Masahito
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三浦按針像
横須賀市自然・人文博物館で展示中の三浦按針像
横須賀市自然・人文博物館の掲載許可取得済写真)
横須賀市自然人文博物館の展示コーナー2Fの「江戸幕府と三浦半島」 では、三浦按針(ウィリアム・アダムズ)の像を添えて展示紹介されています。
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リーフデ号を浦賀に回航
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メッドウェイ市(姉妹都市)
メッドウェイ市紹介パネル
人口 :249,000人
面積 :205㎞2
ロンドンの南東55㎞、メッドウェイ川下流に位置する産業・住宅都市
ロンドンから車で1時間程度
エリザベス一世時代から造船の町として栄えたが、現在は閉鎖された海軍造船施設跡に企業を誘致し発展しています。
1998年4月1日、ジリンガム市とロチェスター市などが合併し、メッドウェイ市になりました。
提携年月日 :1998年8月26日
(メッドウェイ市と再提携日、旧ジリンガム市とは1982年4月8日に提携)
提携理由 :旧ジリンガム市が、航海術や造船技術を我が国に伝えた
ウィリアム・アダムス(三浦按針)の生誕地
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ガラス瓶封入「ガラス製帆船模型」
姉妹都市10周年を記念して贈られた
記念品のガラス製帆船
(飾り台銘板に刻印された説明文)
ギリンガム・横須賀両市の過去10年間のパートナーシップを記念して、1992年8月ギリンガム市長・市議会議員D.M.チェンバース夫人が ウィルアダムス(三浦按針)の船のモデルを横須賀の人々へ贈呈
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東京湾で活躍する按針丸・按針
水先旗を掲げ繋留中の按針丸と按針手前から第11按針丸、第15按針丸、102按針
101按針
横浜港大桟橋の根元(山下公園側)にあるパイロットビル1階を拠点とする協和海運(株)は、同社のパイロットボート(水先艇)に昭和32年(1957)以降、「按針/按針丸」の船名を付け、2012年9月4日現在、按針丸(7隻)と按針(2隻)の合計9隻を使っている。
「按針」には「水先案内」の意味があり、さらに、400有余年前に日本に初めて来たイギリス人で、徳川家康に仕えた海の男・三浦按針(ウイリアム・アダムス)に敬意を表したもの。
ここでいう「パイロット」とは、水先人(みずさきにん)の英名(Pilot)であって、多数の船舶が行き交う港や海峡、内海の環境に精通することが難しい外航船や内航船の船長を補助し、船舶を安全かつ効率的に導く専門家を指し、一般的には「水先案内人」と呼ばれている。
また、「パイロットボート」とは、水先案内人を必要とする船舶に水先案内人を送り迎えする専用船(水先艇)であって、「パイロット」の乗船を示す「水先旗・H旗(赤色と白色でタテ割りされた国際信号旗)」を掲げている。
「水先」および「按針」の同義語的な言葉として、船が安全に航行できるよう河(川)や海に杭を刺して水路を示す「澪標(みを(お) つくし)」があり、万葉集でも使われている。
「澪(みお)」は「水尾」=「水緒」=「水脈」の意味で、海岸近くで船が安全に通れる水路をいい、「つ」は雅語の助詞で「の」の意。
「くし」は「串」で「杭」のことを「串」と呼んだもの。「澪杭(みをぐい)」や「澪木(みをぎ)」と呼ぶことがあるという。
「みをつくし」は、歌では「身を尽くし」の掛詞として用いられ、「源氏物語」第十四帳の巻名としても使われている。小倉百人一首には「みをつくし」を用いた歌が2首収められている。
以上 協和海運(株)成澤五郎取締役から 2012-12-4に 聴いたこと その他を基に記した
撮影:2012-12-4
以上 協和海運(株)成澤五郎取締役から 2012-12-4に 聴いたこと その他を基に記した
撮影:2012-12-4
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三浦按針と徳川家康をNHK大河ドラマに!
本ポスター画は 「按針のまち逸見を愛する会」の
会員・血脇正裕氏によるもの
2015年4月7日(火)に第3回ANJINサミットが横須賀芸術劇場で開催され、会場が満席となる盛況であった。
開場1時間以上前から詰めかけた聴衆が 開場を待って行列を
按針ゆかりの4つの市が開催する「ANJINサミット」は、第1回を2013年に平戸市(長崎県)で、第2回を2014年に伊東市(静岡県)で開催され、第4回は2016年に臼杵市(大分県)で開催される予定である。
「ANJINサミット」の第1回目から、三浦按針を主テーマとしたNHK大河ドラマの実現を目指しており、第3回ANJINサミット開催の翌4月8日に伊東市・平戸市・臼杵市・横須賀市の各市長と議長に、按針菩提寺・浄土寺住職が加わってNHKを訪問のうえ、大河ドラマ実現の要望書を提出した。
横須賀市では、「按針のまち逸見を愛する会」と「横須賀市逸見観光協会」が左掲のポスターを作成し、逸見を中心とした商店などに掲示している。
左掲ポスターをクリックするとA4サイズのPDFファイルが開くので、印刷の上、掲示などに活用して頂きたい。 (2015-11-18 記す)
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按針セミナー
第2回按針セミナー開催案内チラシ
仁志耕一郎著「家康の遺言」
「按針のまち・逸見を愛する会」は、第2回按針セミナーを 2017年11月11日(土)に 横須賀市生涯学習センターで開催した。
第2回セミナーのタイトルは「家康に天下を取らせた三浦按針の魅力とは! ~大河ドラマ化実現への道を探る~」であった。
『家康の遺言』などの著書がある歴史時代作家・仁志耕一郎氏および三浦按針菩提寺浄土寺住職・逸見道郎氏に熱の籠もった講演を頂いた後、按針のまち・逸見を愛する会の米山淳一会長を加えて鼎談を行った。
青い目のサムライ・三浦按針をNHK大河ドラマに!
なお、第1回目の按針セミナーは2017年2月25日(土)に「按針がつなぐ浦賀と逸見」のタイトルにて、郷土史家・山本詔一氏が講演を行った後、浄土寺住職・逸見道郎氏と「按針のまち・逸見を愛する会」の米山淳一会長による鼎談があった。
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