【佐野市郷土博物館 常設展示解説】 より この像はもとオランダ船エラスムス号の船尾に飾られており、船は後にリーフデ号と改名されました。 リーフデ号は、慶長(けいちょう)5年(1600)に太平洋上で暴風雨にあい、大分県に漂着し、のち、江戸湾に回送され取調べの後破壊されました。しかし、木像だけは幕府の持筒頭をしていた旗本(はたもと)の牧野成里(しげさと)によって、領地である羽田村の龍江院(りゅうこういん)に納められました。 像の主は、有名なオランダの啓蒙(けいもう)思想家エラスムスです。 <注> この像のオリジナルは、国の重要文化財に指定され、東京国立博物館に寄託 佐野市郷土博物館の所在地は、栃木県佐野市大橋町2047 龍江院の所在地は、栃木県佐野市上羽田1242
【龍江院本堂掲額】 別項「エラスムス像伝来について」で示すとおり、カテキ様・貨狄尊(荷狄尊)・エラスムス像のオリジナル像は、旧国宝(現重要文化財)に指定された昭和5年以降、東京国立博物館に寄託されているので、同オリジナル像の所蔵者たる龍江院で拝顔することができない。 また、複製された像も佐野市郷土博物館の常設展示品となっているので、龍江院では複製像にも会うことができない。 このため、オリジナル像の写真が龍江院本堂に掲げられている。 上写真には、次のメモが額内写真右下に差し込まれている。 「荷狄像写真 大正13年12月25日(クリスマス)より昭和元年12月25日迄2ヶ年間羅馬バチカンに開かれたる世界宗教博覧会に出品し此程羅馬法皇庁より文部省を経て返還せられたるもの」 下の写真には、「重要文化財エラスムス立像写真」と記した短冊が、左下に貼られている。
【曹洞宗貞正山龍江院 案内書】 此の草深い栃木県の西南端にある 禅宗龍江院の山門をくぐると左手に 小さな観音堂があります。此の観音堂に 徳川の初期から大正の末期まで 観音様と一緒に「カテキ様」という木像が安置されていた。むずかしく書けば「貨狄尊」である。 だが 土地の人達の付たアダ名は 「アズキトギ婆(ばばあ)」と云った。夜中にお堂の中でザツザツとアズキをとぐような音がすると云うのである。子供達が親の云うことなどをきかぬ時は アズキとぎ婆がやってくるぞと 大人達におどかされたものだそうだ。 それだけではなく 此のカテキ様は夜な夜なムジナに化けて村内をうろつき、村人をだましたとか、チャンピロリン チャンピロリン と歌ったとか、とにかく村人にとっては得体の知れない仏像だったのである。 こういう因縁で、エラスムス像はある種の仏様と間違えられ 村人達にこわがられ、腰の小穴はムジナに化けた時、村人に鉄砲で打たれたキズだなどと云われていた。 此のカテキ様を広く世間に紹介したのは 栃木県考古学の草分けである足利市の故丸山瓦全氏で 丸山氏は此れをキリシタンの宣教師と考え 考古学者坪井九馬三博士の教示により カテキ様とはカテキスム(カトリック教の教理を問答体でやさしく書いたもの)またはカテキスタ(信者と教理問答を行う役僧)から出た名前だろうとの説を述べ 又 新村出博士はこれは中国の伝説で船の発明とされている貨狄のことであって、そう呼んだのであろうと推定している。 此れがきっかけで これまで人知れず埋もれていた此の木像が 学者達の注意を集めだした。さらに エラスムス像の写真が大正13年のクリスマスから2年間 バチカン市で開かれた世界宗教博覧会に「在日本キリスト教聖人像」として出品されて西洋の学者の注目をひき 村上直次郎、新村出博士らの南蛮学者や駐日オランダ公使通訳官スネレン氏らの研究により 実はオランダが生んだ偉大な人文学者デジデリウス・エラスムス・ロッテルダムス(1469~1536)の木像であることがわかった。 顔つきがハンス・ホルバインやアルブレヒト・デューラーなどの巨匠が描いたエラスムスの肖像によく似ており また木像が持っている巻物には(ERA・MVS R・・TE・・M 1598)とあって これが「エラスムス・ロッテルダム」と判読されたからだ。大正15年の事である。 それでは なぜ此のオランダ船に付いていたエラスムス像が海なし県の栃木県にもたらされたか、いろいろ異説もあり詳細はわからないが、エラスムス像はリーフデ号の船尾像で臼杵城主太田一吉に贈られたが、その年関ヶ原の役が起り、石田三成に味方した一吉は隣接の岡城主中川秀成に攻められて 像を城に残して逃げ出し、臼杵には稲葉氏が封ぜられた。 やがて寛永14年(1637)島原の乱が起ると、城主稲葉一通はいち早く当時府内(大分市)にいた幕府の目付牧野伝蔵成純を通じて幕府に報告、その通知が敏速だったというので幕府の賞美を受けた。 そこで 稲葉一通は感謝の意をあらわすため 軍監として島原へおもむいた牧野成純が江戸に帰る時 臼杵城内に置かれていたエラスムス像を贈ったが、この牧野成純の菩提寺が龍江院で、成純が像を龍江院に納めたのである。 エラスムス像は昭和5年に国宝に指定され 同時に東京国立博物館に寄託し、現在に至っています。其後昭和25年重要文化財に指定替になった。此のリーフデ号には安針ウイリアム・アダムス及ヤン・ヨーステン等の人々が乗船していた。 龍江院 先代住職 大澤 雄鳳(1979年記)
【曹洞宗貞正山龍江院 沿革碑】 本尊は釈迦如来、 脇仏は文殊普賢菩薩なり。 当山は明応3年水戸80万石の領主佐竹越後安義輔卿が其の厳父遠江守義定公の為水戸城内に開創せし名監にして、開山は実に秀峰存岱和尚成りとす。 伝え云ふ千波浦の龍神化し来りて、和尚の至誠を蒙り 大戒を受け歓喜して宝珠をささぐ 因って寺を龍江院と称せるなりと 開山存岱和尚は模庵宗範和尚の法嗣にして宝徳2年に誕生あり。 夙に 宗範和尚に投じて業を受け 後 一休禅師に紫野大徳寺に参じて大に所得あり 道誉宗内に喧しく、和尚が当院に住せらるたるは 実に四十有五歳の時なり。 住する事同暦6年相州小田原の大雄山最乗寺に昇住し 大に家風を宣揚し、永正3年師五十有七歳にして宗門一般の品評に拠り 我大本山永平寺に昇住し 高祖下第十世の法席を薫され 翌年参内して御柏原天皇より大功正伝禅師の勅号を賜り 又 ここに於て道誉河内に普く高祖の遺風を顕彰する事を得たるは 全く禅師の賜なりと謂うべきなり。 享禄元年春 師は永平寺を退休して 再び当院に帰錫ある居る事 翌年4月俺然として大寂せられ 時に齢88歳 依て遺弟等相図て 塔を城内に建て 以て其の徳風を追慕す。 其後 星霜推移して門風大に振ひたりしと雖も 慶長7年城主但馬守は事によりて 秋田に改易せらるるにより 十二世玄芳和尚は城主と決別し 自から開山の木像所伝の法宝等を捧持して野州間々田村に至り 不動堂に住し開院して龍昌寺を開き 更に 同州免鳥に至りて一宇を開創して龍真寺と名づく。 同暦18年牧野伊豫守成里 師の徳風を慕いて 知行内羽田に於て貞昌寺の旧蹟に一宇を建立し 和尚を屈請して住持たらしめて 同家代々の香華院となしたり。 以上は素より 寺誌の一端たるに過ぎずと雖 依て以て 我龍江院が宗門歴史上に於る一名刹たる事を推知するに足らん。 1.寺宝旧国宝現重要文化財エラスムス立像 1.唐僧墨蹟 八幅 隠元 木庵 即非 其他 1.菅原道真 墨蹟 1.紫式部 遺硯 1.青磁 高炉 1.開山及二世画像 狩野常信筆 1.出山釈迦 達磨 大権板画像 常信筆 1.開基牧野伊豫守 遺硯 1.旗指物「いろはにほへと」 牧野伝藏仕用 1.薙刀一振 文殊包定作 江戸初期 1.小袖生地 牧野家遺品 桃山時代 1.飾棚 牧野家遺品 桃山時代 1.其の他 古文書 多数 1.牧野家歴代墓碑
龍江院(栃木県観光物産協会)> 龍江院(佐野市仏教会) 龍江院とエラスムス像について(佐野ユネスコ協会) エラスムス Renaissancejapan (unicef) エラスムス立像(東京国立博物館) エラスムス号のこと(上) かわうそ亭 エラスムス号のこと(下) かわうそ亭 デジデリウス・エラスムス(Wikipedia)