明治38年の按針塚発掘調査の目的は、按針塚の修理保存工事開始に当り、英国公使の希望により、按針塚が三浦按針を葬ったものであるか否か確かめるためであった。 次に記載の「資料1-1」および「資料1-2」を参照されたい。 資料1-1 時事新報 明治38年5月25日(木)第7753号10面(頁)の5段目左端~6段目右端に掲載された記事「按針塚の由来」の全48行のうち後段16行を 次のとおり抜粋 予が死したる後は遺骸を埋むるに江戸城を望み得らるべき地即ち予が領地たる逸見の山頂を以てせよと遺言し元和六年四月四日遂に歿せり是に於て妻馬籠氏は遺言を奉じてアダムスを弔ひ其身も寛永十一年七月十六日病死しアダムスと同所に葬られたるが土地の人民何時となく同所を按針塚と唱へ以て今日に至れるなりと 其塚の面積二百十四坪周囲の鉄柵間口二間三尺奥行三間三尺なるが今回之を発掘実検して果してアダムスを葬りたることを確めたる上は大に工を起し修繕を加へてアダムスの功績を後世に頌表せんとするの計画あり昨日英国公使、神奈川県知事其他の実地臨検をなしたるは之が為めなりと云ふ 資料1-2 大正10年12月15日 按針塚拡張事務取扱主任三浦助一郎が記した『安針塚修理及保存ノ概要』5~6頁から 次のとおり抜粋 墳墓ノ修理ニ先チ英国公使ノ希望ニ因リ果シテ「アダムス」氏ノ墳墓ナルヤ否ヲ確カメンガ為メ之ヲ発掘実見セントシ同年五月二十六日理学博士坪井正五郎氏ノ出張ヲ求メ深サ一丈許発掘シタルニ鬢髪等遺物ノ埋蔵シアリシヲ以テ「アダムス」氏ノ墳墓タル確保ヲ得タリ是ニ於テ翌卅九年修理ニ着手シ横須賀市ノ南方葉山村ニ面セシ墳墓ヲ「アダムス」氏ノ遺言ニ基キ新ニ東京湾ニ面セシメ之ト同時ニ墓石ヲ補修シ周囲ハ古式ニ則リテ木柵ヲ建造シ且山麓ヨリ墓前ニ至ル道路ヲ改修シ数十段ノ石階ヲ設ケ参詣者ノ休憩所及看守人詰所等ヲ新築セリ 補足 上掲「資料1-2」に「鬢髪等遺物ノ埋蔵シアリシ」とあるが、次項の「按針塚発掘調査の結果」に掲げる「資料2-1」~「資料2-4」のとおり、按針塚発掘時としてはリアルタイム的に報じた「時事新報」の記事「墓としての証跡が何もなかった」とは全く違ったものであり、「資料1-2」がいう「鬢髪云々」は明らかな誤記といえよう。後掲「先達 加藤・幸田・岡田の文献」に掲載した「資料3-1」~「資料3-3」においても「按針塚は墓でなく供養塔」としている。 <注> 仮名遣い、句読点および漢数字は原文のままとし、漢字の字体を常用字体とし、ルビを全て外し、タテ書をヨコ書に変えた
予が死したる後は遺骸を埋むるに江戸城を望み得らるべき地即ち予が領地たる逸見の山頂を以てせよと遺言し元和六年四月四日遂に歿せり是に於て妻馬籠氏は遺言を奉じてアダムスを弔ひ其身も寛永十一年七月十六日病死しアダムスと同所に葬られたるが土地の人民何時となく同所を按針塚と唱へ以て今日に至れるなりと 其塚の面積二百十四坪周囲の鉄柵間口二間三尺奥行三間三尺なるが今回之を発掘実検して果してアダムスを葬りたることを確めたる上は大に工を起し修繕を加へてアダムスの功績を後世に頌表せんとするの計画あり昨日英国公使、神奈川県知事其他の実地臨検をなしたるは之が為めなりと云ふ
墳墓ノ修理ニ先チ英国公使ノ希望ニ因リ果シテ「アダムス」氏ノ墳墓ナルヤ否ヲ確カメンガ為メ之ヲ発掘実見セントシ同年五月二十六日理学博士坪井正五郎氏ノ出張ヲ求メ深サ一丈許発掘シタルニ鬢髪等遺物ノ埋蔵シアリシヲ以テ「アダムス」氏ノ墳墓タル確保ヲ得タリ是ニ於テ翌卅九年修理ニ着手シ横須賀市ノ南方葉山村ニ面セシ墳墓ヲ「アダムス」氏ノ遺言ニ基キ新ニ東京湾ニ面セシメ之ト同時ニ墓石ヲ補修シ周囲ハ古式ニ則リテ木柵ヲ建造シ且山麓ヨリ墓前ニ至ル道路ヲ改修シ数十段ノ石階ヲ設ケ参詣者ノ休憩所及看守人詰所等ヲ新築セリ
按針塚発掘調査の結果は、当時の時事新報(資料2-1~資料2-4)が伝えたことによると、按針塚に三浦按針が葬られた証跡(証拠)が何も見つからなかったが、坪井正五郎博士が古老の話(口碑)などを以て三浦按針の墓としたという。 明治38年の発掘調査から16年後の大正10年に記された上述「資料1-2」の「鬢髪等の遺物の埋蔵アリ」とする記載は事実ではない「誤記」と考えるべきで、「鬢髪」など何一つ現存しない。 「資料1-2」によると、発掘前の按針塚・宝篋印塔2基は葉山側を向いて建ち 東京湾に向かって建っていなかったので 東京湾側に向けて設置し直したという。 これは『新編相模国風土記稿』が伝える「安針恒ニ云。我死セバ東都ヲ一望スベキ。高敞ノ地ニ葬ルベシ。サアラハ永ク江戸ヲ守護シ 将軍家ノ御厚思ヲ泉下ニ報シ奉ラント。」が言い伝え(伝説)に過ぎないことを物語っている。 三浦按針研究の先達である加藤三吾、幸田成友、岡田章雄らは、按針塚が三浦按針の墓ではなく供養塔としている。横須賀市が市制施行百周年記念事業の一環として出版した『新横須賀市史』でも按針塚を三浦按針の墓とはしていない。 <注> 「時事新報」は、2007年9月 竜渓書舎刊 復刻版『時事新報』第24巻5 明治38年5月 を使用した 仮名遣い、句読点および漢数字は原文のままとし、漢字の字体を常用字体とし、ルビを全て外し、タテ書をヨコ書に変えた 資料2-1 時事新報 明治38年5月24日(水) 第7752号 4面(頁)5段目中央に掲載の記事 横須賀按針塚と英公使 (横須賀電話) 二十三日午前十時五十五分横須賀着汽車にて英国公使マクドナルド氏同夫人は周布神奈川県知事、岡田通訳官及び横浜居留医師ウイラー英一番館主ジェームス ウオーター同ページ等諸氏と共に当地に来り今より殆ど三百年前徳川家康将軍の時我国に渡来して遂に横須賀の土となりたる有名なる英国按針ウイリヤム アダムスを葬りたりと伝へらるゝ按針塚が果たしてアダムスの墳墓なるや否やを極めん為め其発掘に取掛りたるが未だ其目的を達するに至らず周布知事及び英国公使同夫人は午後二時五十五分発汽車にて一先づ帰り去りたり 資料2-2 時事新報 明治38年5月25日(木) 第7753号 6面(頁)6段目左寄に掲載の記事 按針塚発掘後報 (横須賀電話) 按針塚の発掘に就ては昨廿三日は何の証跡も現はれず引続き今廿四日周布神奈川県知事井上警部長石川三浦郡長鈴木横須賀町長横浜居住英国人等立会ひの上、塚の面積約二分一を発掘したれども別段に骨らしき物を発見せず唯肥前平戸より産するものと同一性質の石厚さ一寸幅二寸長さ三四寸位の物多く出で其中の一箇に刻しありたる異様の一字のみ判然し其他の字体は分らず多分是れは石棺の破片ならんとの説あり尚ほ明日は更に理学博士坪井氏の出張を請うて鑑定を依頼し其発掘を継続する筈なりと云ふ 資料2-3 時事新報 明治38年5月26日(金) 第7754号 11面(頁)5段目左寄に掲載の記事 按針塚発掘継続 (横須賀25日電話) 去る二十三日より引続き発掘中なる按針塚に就きては其後坪井博士出張する筈なりしが差支ありて大学教授柴田杖英氏出張鑑定の上尚ほ発掘を継続し居れども未だ充分なる証跡を得る能はずと云ふ 資料2-4 時事新報 明治38年5月27日(土) 第7755号 6面(頁)5段目左端に掲載の記事 ◎按針塚発掘後報 過日来発掘を継続し居れる按針塚は今二十六日も坪井博士周布神奈川県知事井上神奈川県警務長石川三浦郡長鈴木横須賀町長及び横浜居住英国人ジェームス ウオーター氏等立会ひ発掘を継続したるが未だ其確なる証跡を得るを能はざれども土地の状態と古老の云ふ所及び其当時肥前国平戸に駐在せし英国領事コックスと云へる人の著せしアダムスの履歴書に依り坪井博士は正にアダムスの古墳に相違なしと鑑定を下し尚ほ大学に帰りて後篤と研究したる上其意見を発表することとなりしを以て周布知事及びウオーター氏等は今後廣く寄付金を募集して一大記念碑を建立し以てアダムスの功績を頌表する筈なりと (横須賀電話)
横須賀按針塚と英公使 (横須賀電話) 二十三日午前十時五十五分横須賀着汽車にて英国公使マクドナルド氏同夫人は周布神奈川県知事、岡田通訳官及び横浜居留医師ウイラー英一番館主ジェームス ウオーター同ページ等諸氏と共に当地に来り今より殆ど三百年前徳川家康将軍の時我国に渡来して遂に横須賀の土となりたる有名なる英国按針ウイリヤム アダムスを葬りたりと伝へらるゝ按針塚が果たしてアダムスの墳墓なるや否やを極めん為め其発掘に取掛りたるが未だ其目的を達するに至らず周布知事及び英国公使同夫人は午後二時五十五分発汽車にて一先づ帰り去りたり
按針塚発掘後報 (横須賀電話) 按針塚の発掘に就ては昨廿三日は何の証跡も現はれず引続き今廿四日周布神奈川県知事井上警部長石川三浦郡長鈴木横須賀町長横浜居住英国人等立会ひの上、塚の面積約二分一を発掘したれども別段に骨らしき物を発見せず唯肥前平戸より産するものと同一性質の石厚さ一寸幅二寸長さ三四寸位の物多く出で其中の一箇に刻しありたる異様の一字のみ判然し其他の字体は分らず多分是れは石棺の破片ならんとの説あり尚ほ明日は更に理学博士坪井氏の出張を請うて鑑定を依頼し其発掘を継続する筈なりと云ふ
按針塚発掘継続 (横須賀25日電話) 去る二十三日より引続き発掘中なる按針塚に就きては其後坪井博士出張する筈なりしが差支ありて大学教授柴田杖英氏出張鑑定の上尚ほ発掘を継続し居れども未だ充分なる証跡を得る能はずと云ふ
◎按針塚発掘後報 過日来発掘を継続し居れる按針塚は今二十六日も坪井博士周布神奈川県知事井上神奈川県警務長石川三浦郡長鈴木横須賀町長及び横浜居住英国人ジェームス ウオーター氏等立会ひ発掘を継続したるが未だ其確なる証跡を得るを能はざれども土地の状態と古老の云ふ所及び其当時肥前国平戸に駐在せし英国領事コックスと云へる人の著せしアダムスの履歴書に依り坪井博士は正にアダムスの古墳に相違なしと鑑定を下し尚ほ大学に帰りて後篤と研究したる上其意見を発表することとなりしを以て周布知事及びウオーター氏等は今後廣く寄付金を募集して一大記念碑を建立し以てアダムスの功績を頌表する筈なりと (横須賀電話)
前項「按針塚発掘調査の結果」に記したことの繰り返しになるが 按針塚発掘調査の結果は、当時の時事新報(資料2-1~資料2-4)が伝えたことによると、按針塚に三浦按針が葬られた証跡(証拠)が何も見つからなかったが、坪井正五郎博士が古老の話(口碑)などを以て三浦按針の墓としたという。 「資料2-4」 によると 坪井博士は大学に戻って按針塚発掘結果を篤と研究の上 その意見を発表することになっていた。しかし、坪井博士が意見を発表した著作物が見つかっていない。筆者の推測では、坪井博士は発掘時に口頭では按針塚が三浦按針の古墳(墓)としたものの、墓とする証跡が全くないにも拘わらず、墓であるとする著作物を遺すことを避けたと思われる。 ここで紹介する 加藤三吾、幸田成友および岡田章雄の各著書では、逸見の人々に気を遣いながら記述している。できる限り原著を読むことをお勧めする。 <注> 仮名遣い、句読点および漢数字は原文のままとし、漢字の字体を常用字体とし、ルビを全て外し、タテ書をヨコ書に変えた
資料3-1 加藤三吾著『三浦の安針』 大正6年4月 明誠館刊 より 4ヶ所を抜粋 資料3-1-1自序 より抜粋 東京日本橋魚河岸に近き安針町と横須賀逸見の十三峠塚山頂上なる安針塚とは、共に(ウヰリヤム、アダムス)即ち「三浦の安針」の好記念なり、而して安針塚は久しく(アダムス)埋骨の墳墓と信せられたりしが、今や此塚は単に(アダムス)の供養塔に過ぎずして、(アダムス)終焉の地も(アダムス)埋骨の地も同じく肥前平戸なりと決定せらるゝに至りたりしなり 予曽て平戸に在り、英国特命全権大使(サー、クロード、マクドナルド)氏及同夫人は、特に平戸に来遊して予に嘱するに(アダムス)埋骨地点の探究を以てしたり、予や固より平戸貿易時代の史的研究に従事するものなり、文書の渉猟と遺蹟の踏査とに最善の努力を吝まざりき、爾来其経過を世に公にするの機会に接すること稀なりしが、這般多少の閑を得たるを以て、日夕筆硯に親しみ、項を逐ひ章を重ねて此書を成す、叙述論断共に権威ある史料に基づきたるものなり、読者徒らに架空の稗史と同一視せざらんことを望む 資料3-1-2(リース)博士の考証(明治三十三年発表) 同書 P268~269 より抜粋 『予は(アダムス)の死したる地も、埋骨の地も、共に平戸なりと断言するものなり』と述べ、其理由として 『(アダムス)の遺骸は平戸より逸見に転送されたるにあらず、季節は決して之を許さず、彼の死せるは梅雨の候なればなり、又、火葬して荼毘の灰を送りたるにあらざるかとの疑起らんも、耶蘇教徒としての英人の感情より、断じて然ることなしといふを得べし、兎に角に平戸より逸見に遺骸の発送なかりしことは、(コックス)日記千六百二十一年十二月二十九日の条に 予は(ケピテン、アダムス)の遺言により、其刀及脇差を其子(ジョセフ)に渡したるに、涙を以て授受せり とあるにて推せらる、若し平戸にて死したる(アダムス)の遺骸が、直に逸見に送られたらんには、其佩刀も如何でか同時に送られざるの理なかるべき、これを以て逸見に於ける安針塚は、(アダムス)埋骨の地にあらざることを知るに足らん』と説かれた 資料3-1-3按針塚の発掘 同書 P269 より抜粋 明治三十八年五月二十二日神奈川県知事及東京横浜在留英人等立会の上、安針塚の発掘に従事したが、何等埋葬の形跡をだに認めなかったのである。 さて、逸見十三峠塚山の安針塚は単に安針夫妻の水向所に過ぎぬと決定した以上は、肥前平戸こそは安針の終焉地、且つ、埋骨地であるといふことが益々明確になった次第であるが、五十有余年の曲折に富める生涯を終りて、萬里の異域なる日本九州の平戸島に骨を埋めたる、彼れ安針の英魂今は平戸の何れの地点に眠れる乎、海底か将た山頂か、潮汐長へに去来して、松籟空しく嘯くのみである。 資料3-1-4英国大使(マクドナルド)氏と安針 同書 P313~314 より抜粋 英国大使(サー、クロウド、マクドナルド)氏は日英同盟に力を尽くした人であった、されば日英国交最初の媒介者としての安針(ウヰリアム、アダムス)に敬意を表して居る人であった、明治三十八年十二月上旬、(マクドナルド)氏並に夫人は親しく肥前平戸に遊び、安針事蹟の調査を著者に嘱したことがあったのである、其後、英国(コンノート)親王殿下の東京に来遊せらるゝや、安針塚維持の為めに若干金を寄附せられた、今や安針塚は日英両国の有志に拠て多少の修繕を加へられて、碑石は旧苔を払はれて、墓域は新柵を繞らされて、墓前に石標を立てゝ表彰さるゝことになった。 補足 本書は 国立国会図書館サイトで閲覧可能であり、ダウンロードや印刷も可能、また Google でも閲覧可能 加藤三吾の生年は慶應元年10月6日(西暦1865年11月11日) 没年は昭和14年(1939)4月6日であったので、明治38年(1905)5月の按針塚発掘調査時は滿39歳であり、発掘調査に従事できる体力が十分あったと思われる。 「資料3-1」によると マクドナルド英国大使が按針塚発掘の年・明治38年(1905)の暮に平戸を訪れ、加藤三吾に三浦按針の埋葬地を平戸で探して欲しいと頼んだことは、マクドナルド英国大使が按針塚は三浦按針の墓でないと認識していたことによると思われる
資料3-1-1自序 より抜粋 東京日本橋魚河岸に近き安針町と横須賀逸見の十三峠塚山頂上なる安針塚とは、共に(ウヰリヤム、アダムス)即ち「三浦の安針」の好記念なり、而して安針塚は久しく(アダムス)埋骨の墳墓と信せられたりしが、今や此塚は単に(アダムス)の供養塔に過ぎずして、(アダムス)終焉の地も(アダムス)埋骨の地も同じく肥前平戸なりと決定せらるゝに至りたりしなり 予曽て平戸に在り、英国特命全権大使(サー、クロード、マクドナルド)氏及同夫人は、特に平戸に来遊して予に嘱するに(アダムス)埋骨地点の探究を以てしたり、予や固より平戸貿易時代の史的研究に従事するものなり、文書の渉猟と遺蹟の踏査とに最善の努力を吝まざりき、爾来其経過を世に公にするの機会に接すること稀なりしが、這般多少の閑を得たるを以て、日夕筆硯に親しみ、項を逐ひ章を重ねて此書を成す、叙述論断共に権威ある史料に基づきたるものなり、読者徒らに架空の稗史と同一視せざらんことを望む 資料3-1-2(リース)博士の考証(明治三十三年発表) 同書 P268~269 より抜粋 『予は(アダムス)の死したる地も、埋骨の地も、共に平戸なりと断言するものなり』と述べ、其理由として 『(アダムス)の遺骸は平戸より逸見に転送されたるにあらず、季節は決して之を許さず、彼の死せるは梅雨の候なればなり、又、火葬して荼毘の灰を送りたるにあらざるかとの疑起らんも、耶蘇教徒としての英人の感情より、断じて然ることなしといふを得べし、兎に角に平戸より逸見に遺骸の発送なかりしことは、(コックス)日記千六百二十一年十二月二十九日の条に 予は(ケピテン、アダムス)の遺言により、其刀及脇差を其子(ジョセフ)に渡したるに、涙を以て授受せり とあるにて推せらる、若し平戸にて死したる(アダムス)の遺骸が、直に逸見に送られたらんには、其佩刀も如何でか同時に送られざるの理なかるべき、これを以て逸見に於ける安針塚は、(アダムス)埋骨の地にあらざることを知るに足らん』と説かれた 資料3-1-3按針塚の発掘 同書 P269 より抜粋 明治三十八年五月二十二日神奈川県知事及東京横浜在留英人等立会の上、安針塚の発掘に従事したが、何等埋葬の形跡をだに認めなかったのである。 さて、逸見十三峠塚山の安針塚は単に安針夫妻の水向所に過ぎぬと決定した以上は、肥前平戸こそは安針の終焉地、且つ、埋骨地であるといふことが益々明確になった次第であるが、五十有余年の曲折に富める生涯を終りて、萬里の異域なる日本九州の平戸島に骨を埋めたる、彼れ安針の英魂今は平戸の何れの地点に眠れる乎、海底か将た山頂か、潮汐長へに去来して、松籟空しく嘯くのみである。 資料3-1-4英国大使(マクドナルド)氏と安針 同書 P313~314 より抜粋 英国大使(サー、クロウド、マクドナルド)氏は日英同盟に力を尽くした人であった、されば日英国交最初の媒介者としての安針(ウヰリアム、アダムス)に敬意を表して居る人であった、明治三十八年十二月上旬、(マクドナルド)氏並に夫人は親しく肥前平戸に遊び、安針事蹟の調査を著者に嘱したことがあったのである、其後、英国(コンノート)親王殿下の東京に来遊せらるゝや、安針塚維持の為めに若干金を寄附せられた、今や安針塚は日英両国の有志に拠て多少の修繕を加へられて、碑石は旧苔を払はれて、墓域は新柵を繞らされて、墓前に石標を立てゝ表彰さるゝことになった。 補足 本書は 国立国会図書館サイトで閲覧可能であり、ダウンロードや印刷も可能、また Google でも閲覧可能 加藤三吾の生年は慶應元年10月6日(西暦1865年11月11日) 没年は昭和14年(1939)4月6日であったので、明治38年(1905)5月の按針塚発掘調査時は滿39歳であり、発掘調査に従事できる体力が十分あったと思われる。 「資料3-1」によると マクドナルド英国大使が按針塚発掘の年・明治38年(1905)の暮に平戸を訪れ、加藤三吾に三浦按針の埋葬地を平戸で探して欲しいと頼んだことは、マクドナルド英国大使が按針塚は三浦按針の墓でないと認識していたことによると思われる
資料3-2 幸田成友著「三浦按針」『史学第15巻第1号』(昭和11年5月 三田史学会 発行) より 一部(P45-47)「附録」を抜粋 横須賀逸見の按針塚の上に立てる二基の墓石には、一方に壽量滿院現瑞居士、一方に海華王院妙滿比丘尼と刻んである。これがアダムスとその日本婦人の法号と言はれて居る。一体この墓石は何時何人によって建てられたものか、明白に記したものを見ない。アダムスと日本婦人との間に男女各々一人の子があり、男子のジョセフは父の名を襲って三浦按針と称したといふ。恐らくこの二代目の按針が建てたものであらう。墓石の前に安針町から奉納した石灯篭があって、それに寛政十歳戊午二月とあるから、その頃までは安針町に何等かの伝説も残ってゐたのであらう。 西洋側の記事を見ると、横浜在住のジェームス・ウォルター氏が明治五年これを発見したとある。寛政から僅か七八十年の間に墓碑は空しく荊棘の間に埋もれて吊ふ人も無くなったのであらう。ウォルター氏は自分の費用で若干の修繕を加へたが、年を経て再び荒廃に帰せんとしたので、内外の紳士に計り、大修繕の計画を起した。その際これが果してアダムスの遺骸を収めた墳墓であるかどうかといふ議論が起り、リース博士は否認説を主張せられたが、結局発掘を試みることとなり、明治三十八年五月某日英国公使サー・クロード・マクドナルド夫妻・周布神奈川県知事、ジェームス・ウォルター、ドクトル・ホイラー諸氏立会の上で発掘に着手したが、墓石の下からは何等の遺物も発見されなかったので、アダムスが平戸で死んで平戸に葬られたことは愈々確実となった。但しアダムス夫人の墓はこの時発掘せられたのか、発掘せられたとすれば結果はどうであったか、一向記事のないのは物足らぬ心地がする。 ウォルター氏は同年四月横浜のフハン・シャイク・ホールでアダムスに関する講演を試み、アダムスが所持の時計や彼が日本語で書いた手紙を示されたといふが、それ等の遺品は今何人の手にあるか。 按針塚の修繕は立派に出来上り、大正三年三島毅博士の撰文に成る安鍼塚碑が立ち、また昭和五年には旧安針町に三浦安針邸址といふ石標が建った。惜しむらくは老儒が撰ばれた碑文及び石標に嵌込んだ銅牌の文章の中に、見逃すべからざる事実上の誤謬がある。前に「三浦按針余談」で述べたからこゝでは省略に従はう。 (昭和九年九月初稿同十一年三月成稿) 補足 本論文は、昭和15年(1940)1月 小泉信三らの力添えを得て 中央公論社から単行本『史話東と西』の冒頭に収載された形で再出版され、ここに抜粋した部分はP59~62に収載されている。また 論文「三浦按針」の真後に 論文「三浦按針余談」も収載されている。 『史話東と西』は 幸田成友著の『和蘭夜話』(昭和6年刊)と『和蘭雑話』(昭和9年刊)の姉妹編という。 幸田成友の生没年は 1873年3月9日~1954年5月15日であり、明治38年(1905)5月の按針塚発掘調査時は32歳で『大坂市史』編纂に主任として従事中であった。按針塚は三浦按針の埋葬地ではないと唱えたルードヴィヒ・リースに帥事したという。
横須賀逸見の按針塚の上に立てる二基の墓石には、一方に壽量滿院現瑞居士、一方に海華王院妙滿比丘尼と刻んである。これがアダムスとその日本婦人の法号と言はれて居る。一体この墓石は何時何人によって建てられたものか、明白に記したものを見ない。アダムスと日本婦人との間に男女各々一人の子があり、男子のジョセフは父の名を襲って三浦按針と称したといふ。恐らくこの二代目の按針が建てたものであらう。墓石の前に安針町から奉納した石灯篭があって、それに寛政十歳戊午二月とあるから、その頃までは安針町に何等かの伝説も残ってゐたのであらう。 西洋側の記事を見ると、横浜在住のジェームス・ウォルター氏が明治五年これを発見したとある。寛政から僅か七八十年の間に墓碑は空しく荊棘の間に埋もれて吊ふ人も無くなったのであらう。ウォルター氏は自分の費用で若干の修繕を加へたが、年を経て再び荒廃に帰せんとしたので、内外の紳士に計り、大修繕の計画を起した。その際これが果してアダムスの遺骸を収めた墳墓であるかどうかといふ議論が起り、リース博士は否認説を主張せられたが、結局発掘を試みることとなり、明治三十八年五月某日英国公使サー・クロード・マクドナルド夫妻・周布神奈川県知事、ジェームス・ウォルター、ドクトル・ホイラー諸氏立会の上で発掘に着手したが、墓石の下からは何等の遺物も発見されなかったので、アダムスが平戸で死んで平戸に葬られたことは愈々確実となった。但しアダムス夫人の墓はこの時発掘せられたのか、発掘せられたとすれば結果はどうであったか、一向記事のないのは物足らぬ心地がする。 ウォルター氏は同年四月横浜のフハン・シャイク・ホールでアダムスに関する講演を試み、アダムスが所持の時計や彼が日本語で書いた手紙を示されたといふが、それ等の遺品は今何人の手にあるか。 按針塚の修繕は立派に出来上り、大正三年三島毅博士の撰文に成る安鍼塚碑が立ち、また昭和五年には旧安針町に三浦安針邸址といふ石標が建った。惜しむらくは老儒が撰ばれた碑文及び石標に嵌込んだ銅牌の文章の中に、見逃すべからざる事実上の誤謬がある。前に「三浦按針余談」で述べたからこゝでは省略に従はう。 (昭和九年九月初稿同十一年三月成稿) 補足 本論文は、昭和15年(1940)1月 小泉信三らの力添えを得て 中央公論社から単行本『史話東と西』の冒頭に収載された形で再出版され、ここに抜粋した部分はP59~62に収載されている。また 論文「三浦按針」の真後に 論文「三浦按針余談」も収載されている。 『史話東と西』は 幸田成友著の『和蘭夜話』(昭和6年刊)と『和蘭雑話』(昭和9年刊)の姉妹編という。 幸田成友の生没年は 1873年3月9日~1954年5月15日であり、明治38年(1905)5月の按針塚発掘調査時は32歳で『大坂市史』編纂に主任として従事中であった。按針塚は三浦按針の埋葬地ではないと唱えたルードヴィヒ・リースに帥事したという。
資料3-3 岡田章雄著『三浦按針』 昭和19年9月20日 創元社刊 「第十五章 遺書」より 一部(P268-269)抜粋 逸見の町から程遠くない山の上にアダムスの夫妻をまつった墓がある。すなはち按針塚である。このあたりには塚山公園風致地区の白い標柱が立てられ、眺望が勝れてゐる。つたへるところによれば、アダムスは、将軍家から受けた厚い恩恵に報ゐるため、ぜひ江戸を一望するやうな高い土地に葬られたい、江戸を守護するのだといふ遺言があった。その言葉に従ってこの地に埋葬したのだといふ。(註14) これはもとよりその墓とともにつたはる伝説に過ぎないので、果してアダムスの遺志によったものであったかどうかは疑はしい。たゞしかしかういふことだけは考へられるのではないか。このやうに将軍家康とかたく結びついた、また将軍家を守護するといった信仰がこの墓に纏りついてゐたために、鎖国の長い年月の間、たとへ可成り荒れ果てたとはいひながら、ともかくも毀ち去られることもなく、失はれもせずに保存されて来たのであらう。もっとも今日の状態に置かれたのは明治年間に数回の修理を経たためである。 この按針塚は古くドクトル・リースの考証にもあるやうに(註15)アダムスの遺骸を埋葬した墓所ではない。彼はイギリス人として平戸で亡くなったので、その遺骸は当然商館に附属した共同墓地に葬られたに相違ない。その模様はたとへば次の例から推して察せられる。 「一六二〇年一二月六日(霜月二十二日)――ジェームス・ロイヤル号の事務係ウイルキンス君は永い間肺患に悩んでゐたが、昨夜逝去した。そして今朝我等の埋葬地に葬られた。キャプテン・プリング、キャプテン・アダムス(○ロバート・アダムス)以下多数の人々が遺骸をおくって墓所に赴いた。説教師のコップランド君が埋葬にあたって章句を誦んだ。」 これはコックスの日記の一節であるが、そのウイルキンスの葬られた墓地の一画にはこの時、半歳ほど前に埋葬されたアダムスが静かに眠ってゐたのである。 註記 二六九頁・註(14) 三浦古尋録、相中留恩記略等の説である。 二六九頁・註(15) Ludwig Riess. William Adams und sein "Grab" in Hemimura. (Mitth. der deutsch. Gesellsch Ostasiens, Vol. VIII, Part. 3. ovril 1902. Pp. 239-253.) 補足 本書は、昭和59年(1984) 思分閣出版から表記に変更を加え、同名の『三浦按針』として再刊されている 岡田章雄の生没年は、1908年10月2日~1982年3月18日であって 按針塚発掘調査の明治38年(1905)には誕生していない 蛇足 当岡田章雄著『三浦按針』の刊行は「この戦争は負けるよ」との噂が密かに広がっていた戦時下の昭和19年9月で、奥付には「査定番号一ノ二二四智」と印刷されている。諸物資不足のときに、よくも発行できたものだ。
逸見の町から程遠くない山の上にアダムスの夫妻をまつった墓がある。すなはち按針塚である。このあたりには塚山公園風致地区の白い標柱が立てられ、眺望が勝れてゐる。つたへるところによれば、アダムスは、将軍家から受けた厚い恩恵に報ゐるため、ぜひ江戸を一望するやうな高い土地に葬られたい、江戸を守護するのだといふ遺言があった。その言葉に従ってこの地に埋葬したのだといふ。(註14) これはもとよりその墓とともにつたはる伝説に過ぎないので、果してアダムスの遺志によったものであったかどうかは疑はしい。たゞしかしかういふことだけは考へられるのではないか。このやうに将軍家康とかたく結びついた、また将軍家を守護するといった信仰がこの墓に纏りついてゐたために、鎖国の長い年月の間、たとへ可成り荒れ果てたとはいひながら、ともかくも毀ち去られることもなく、失はれもせずに保存されて来たのであらう。もっとも今日の状態に置かれたのは明治年間に数回の修理を経たためである。 この按針塚は古くドクトル・リースの考証にもあるやうに(註15)アダムスの遺骸を埋葬した墓所ではない。彼はイギリス人として平戸で亡くなったので、その遺骸は当然商館に附属した共同墓地に葬られたに相違ない。その模様はたとへば次の例から推して察せられる。 「一六二〇年一二月六日(霜月二十二日)――ジェームス・ロイヤル号の事務係ウイルキンス君は永い間肺患に悩んでゐたが、昨夜逝去した。そして今朝我等の埋葬地に葬られた。キャプテン・プリング、キャプテン・アダムス(○ロバート・アダムス)以下多数の人々が遺骸をおくって墓所に赴いた。説教師のコップランド君が埋葬にあたって章句を誦んだ。」 これはコックスの日記の一節であるが、そのウイルキンスの葬られた墓地の一画にはこの時、半歳ほど前に埋葬されたアダムスが静かに眠ってゐたのである。 註記 二六九頁・註(14) 三浦古尋録、相中留恩記略等の説である。 二六九頁・註(15) Ludwig Riess. William Adams und sein "Grab" in Hemimura. (Mitth. der deutsch. Gesellsch Ostasiens, Vol. VIII, Part. 3. ovril 1902. Pp. 239-253.) 補足 本書は、昭和59年(1984) 思分閣出版から表記に変更を加え、同名の『三浦按針』として再刊されている 岡田章雄の生没年は、1908年10月2日~1982年3月18日であって 按針塚発掘調査の明治38年(1905)には誕生していない 蛇足 当岡田章雄著『三浦按針』の刊行は「この戦争は負けるよ」との噂が密かに広がっていた戦時下の昭和19年9月で、奥付には「査定番号一ノ二二四智」と印刷されている。諸物資不足のときに、よくも発行できたものだ。
「一六二〇年一二月六日(霜月二十二日)――ジェームス・ロイヤル号の事務係ウイルキンス君は永い間肺患に悩んでゐたが、昨夜逝去した。そして今朝我等の埋葬地に葬られた。キャプテン・プリング、キャプテン・アダムス(○ロバート・アダムス)以下多数の人々が遺骸をおくって墓所に赴いた。説教師のコップランド君が埋葬にあたって章句を誦んだ。」
Ludwig Riess. William Adams und sein "Grab" in Hemimura. (Mitth. der deutsch. Gesellsch Ostasiens, Vol. VIII, Part. 3. ovril 1902. Pp. 239-253.)
前掲の 「按針塚発掘調査の目的」 「按針塚発掘調査の結果」 「先達 加藤・幸田・岡田らの文献」 をご覧頂いた方は、按針塚が三浦按針の墓ではないこと、供養塔に過ぎないことが、お解りになったことと思いますが、横須賀市は2019年5月9日に、突然「三浦按針墓に関する新たな発見」と題してプレス発表を行いました。 「新たな発見」とは、横須賀市西逸見の三浦按針菩提寺といわれる浄土寺から出てきた資料1-2」として挙げた小印刷物『安針塚修理及保存ノ概要』だけで、同小印刷物に記された「出土品」の「鬢髪」は現存しないという。 ただ 横須賀市が「新たな発見」とした資料『安針塚修理及保存ノ概要』は、実は、当該資料を、神奈川県立図書館は1980年に入手閲覧開始、横須賀市立中央図書館は1986年に複写物を入手閲覧開始していたので、横須賀市が「新たな発見」としたことは明らかに過ちである。 「新たな発見」の表現に誘導された報道機関が、何れも裏付調査を行わないで報道してしまったことは、残念なことである。「新たな発見」とした表現がなければ、報道数は大幅に減っていたと思われる。 横須賀市の報道は、明治38年5月24日~27日に時事新報が報道した「按針の墓とする証跡(証拠)は何も出土しなかった」 および 「坪井正五郎博士らが 証跡はないが逸見の古老に伝わる話を以て按針塚を三浦按針の古墳とした」旨のことが無視されている。 「資料1-2」は、坪井博士の没後8年余り後に考古学者でない按針塚拡張事務取扱主任三浦助一郎が記したもので、かつ「資料3-1」の按針塚発掘調査に従事したという加藤三吾著『三浦の安針』が発行されてから4年余り後に作成されたもの。横須賀市がプレス発表に当り、裏付調査を実施したとは全く感じられないものであった。 横須賀市のプレス発表を受けて執筆された「資料4-2」の鈴木かほる著「三浦按針の「鬢髪出土」の誤報について ―― 明治三十八年『時事新報』の発掘調査報告より ――」51ページには、「本件については、横須賀市文化財専門審議会の前委員長・上杉孝良氏も横須賀市に抗議したものの、このまま放置して置けば、後世、再び新発見といって繰り返される可能性は否定できない。」と記載されている。 なお、鈴木かほる氏は史実に基づいた著作が多く、三浦按針、向井水軍、三浦一族に関しては著名な方 「資料4-2」の鈴木かほる氏の論文の全体を、同氏の承諾を得て、PDFファイルにリンクさせているので、是非、ご覧頂きたい。 115年にわたり眠り続けて来た「知られざる 明治38年の 史料」 理学博士坪井正五郎 柴田常恵 共述『安針塚実査報告』は 本Webページの主張の正しさを裏付けた。 本Webサイト「按針亭」に新設の『按針塚発掘調査報告書を尋ねて』ページを訪ねて下さい。明治38年の発掘調査の結果が明らかになります。 按針塚発掘調査の結果を一口に言えば 「遺物の類を収めるべきものがなく、傍らより発見された一寸余り(約3㎝)の銅片一つの外に、何等の遺物をも得ることがなかった。銅片は、後に奉安された銅製仏像台座の蓮弁一葉の半分であった」となります。
横須賀市が2019年5月9日にプレス発表時に紹介した『安針塚修理及保存ノ概要』は、三浦按針の菩提寺とされる浄土寺が所蔵するものであり、以下、この資料を「浄土寺文書」と略して説明する。 横須賀市が、次の防ぎ方1~3のうち 何れか1つ以上を採っていれば、過ちのプレス発表に至らなかった筈です。防ぎ方を易しい順に1~3とします。
防ぎ方1 「浄土寺文書」は印刷物であるので、浄土寺の外に、『安針塚修理及保存ノ概要』の所蔵者がいる筈と判断すべきであった。 他所の『安針塚修理及保存ノ概要』には「東京小石川音羽町九ノ一七 小池印刷所」と印刷されているので、「浄土寺文書」にも同様に印刷されている筈である。 Web上で、近隣の「神奈川県立図書館」および「横須賀市立中央図書館」の蔵書を検索すれば、両図書館が閲覧に供していたことが容易く判り、「浄土寺文書」が「新たな発見」とはならず、プレス発表にも至らなかった筈です。 某三浦按針研究家が、三浦按針関係書籍を出版されるときに、横須賀市立中央図書館が所蔵する『安針塚修理及保存ノ概要』を閲覧のうえ複写物を入手していた。2019年5月9日に横須賀市が行ったプレス発表を受けて報道した朝日新聞社の記事を書いた記者に電話し「発見されたという資料と同じ内容のものが横須賀市立中央図書館にもあるのを知っていますか」と質問したら「知らなかった」との返答があったという。 また、『安針塚修理及保存ノ概要』は中古本市場に時折登場している。 このように、報道機関は、横須賀市が発表した「新たな発見」を信じて報道したわけで、「新たな発見」の表現がなければ、恐らく報道しなかったと思われ「新たな発見」と表現したことは「大きな過ち」であり、「誤報」といえるものです。
防ぎ方2 「朝日新聞記事」だけでなく「時事新報記事」などもチェックすべきであった。 時事新報の縮刷版は1ヶ月分なら1時間余りでチェックできるもの。時事新報の4日間にわたる「按針の墓とする証跡(証拠)は何も出土しなかった」旨の報道記事を、多大な労力をかけなくとも発見し、プレス発表を行う過ちを防げた筈です。 横須賀市はプレス発表時に『時事新報』記事を丁寧に説明したと按針亭管理人に文書で回答した。しかし、按針亭管理人の追及により、後に、明治38年5月24日付の朝日新聞であったと訂正した。横須賀市のプレス発表は、何故か急ぎすぎて準備不足であったいえるのではないか。
防ぎ方3 坪井正五郎が明治38年の按針塚発掘調査に関する「正式報告書」を遺している筈と考えるべきであった。 インターネットの世の中ゆえ、東京大学大学院情報学環に伝わる『安針塚実査報告』を苦労することなく探し出し、プレス発表に至る過ちを犯さなくて済んだ筈です。 これは、東京大学大学院情報学環が所蔵する『安針塚実査報告』を学者ではない一横須賀市民である按針亭管理人が容易く探し出してしまったことから正しいといえる。 横須賀市は、「浄土寺文書」の内容が正しいか否かは、報道機関にまかせたというが、権威筋である公的機関として無責任である。 「浄土寺文書」の記載は、坪井正五郎と柴田常恵の共述『安針塚実査報告』(東京大学大学院情報学環および国立国会図書館の所蔵)が伝える「史実」に反しており、坪井正五郎らの名誉を著しく傷つけている。
岡田佳太郎著『復命書』(国立国会図書館蔵) 『安針塚実査報告』に記されていないが、神奈川県知事周布公平の代理人として『安針塚実査報告』を坪井正五郎から受領した岡田佳太郎(神奈川県庁通訳官)が墨書し周布公平神奈川県知事に報告した『復命書』(国立国会図書館蔵)には、坪井正五郎が求められれば、さらに詳しい報告書を作成する旨語ったと記されている。 しかし、仮説ではあるが、周布公平知事はさらなる報告書作成を依頼することなく、また、『安針塚実査報告』を印刷して広く知らせることもしなかったと思われる。 このため、「浄土寺文書」に「史実」と異なったことが記されてしまったといえる。 ただ、救われることは、周布知事と関係者が『安針塚実査報告』と『復命書』を破棄することなく、115年後まで保存し伝えて下さったので、今般、明治38年(1905)の按針塚発掘調査の真相がより一層明らかになったわけで、その意味で「貴重な史料」の保存に関わった方々に感謝し御礼を申し上げたい。 また、『安針塚実査報告』を作成した理学博士坪井正五郎を旧蔵者とする貴重な関係史料群が、東京大学大学院情報学環に伝えられ所蔵されていることに感謝し御礼申し上げたい。 [注] ①『復命書』の翻刻が2021年10月30日刊『三浦半島の文化』第30号のP20-22に掲載された ②「岡田佳太郎略年譜」が本サイト「岡田佳太郎の没年を教えてください」ページに2021年1月1日に掲載され公開された ③本[注]は、2021-11-30に新たに作成し公開した
「小冊子」への反響 115年にわたり眠り続けて来た「知られざる 明治38年の 史料」 理学博士坪井正五郎 柴田常恵 共述『安針塚実査報告』を紹介する「小冊子」『按針塚発掘調査報告書を尋ねて』の作成配付時期は、新型コロナウィルス感染症の第1波流行のピークと重なってしまった。 このため、図書館をはじめとする各公共施設などが一次閉鎖され、その機能を停止したこともあってか、国立国会図書館のオンライン検索に載ったのを含め4つの図書館で閲覧可能状態になったが、その他の図書館の手続が遅れていると思われる。 声援を惜しまない方々がおられるものの、報道機関は2019年5月の横須賀市のプレス発表を受けて報道したこともあってか反応が鈍い。 (2020年7月31日現在)